お   盆


「施餓鬼会」の起源
釈迦の十大弟子
六道と釈迦の降誕

  
 日本社会における「お盆」の風習は、「彼岸」の風習と同様に古くからの習わしとして根付いていて正月と並ぶ国民的行事です。
 その起源は、インドの仏教行事に始まります。
 日本で「お盆」と呼んでいるこの行事は、正式には『盂蘭盆会(うらぼんえ)』(Ullambana(ウランバナ))といい、支那(中国)では、梁の大同四年(西暦538年)同泰寺で初めて修法され(この年は日本に仏教が伝来した年とされる)、そして日本では、齊明天皇の三年(西暦663年)に修法されたことから始まるといわれています。
 「お盆」の習わしは、各々の地方(地域)の風習によって多少異なりますが、一般的な(在家の)習わしとしては、基本的にはどこも同じで、先祖を迎え、食べ物を供養し、送って行くとう意味で行われています。
 時期としては、旧暦7月の13日から15日(新暦に読み替えると9月1日から3日間)を「盂蘭盆会」として、仏(先祖)を13日の朝に迎え、15日の夕方に送るということなのですが、16日の夕方に送りをするという地域が多いようです。(旧暦7月を新暦の8月13日から15日に置き換えて行う地域と、東京、神奈川、山梨などのように、新暦の7月13日から15日に行う地域があります。)
 具体的な習わしとして松戸市(当寺発祥の地)の事例を参考とすれば、仏壇(又は精霊棚)に先祖の霊を迎える準備として、仏壇又は精霊壇に真菰(まこも)で織った茣蓙(ござ)を敷き、同じく真菰で編んだ縄で野菜(農家においては特にその家でとれた作物)などを纏い付けたりして、壇上には蓮の葉(蓮の葉がなかなか手に入らないので芋の葉を代用する場合がります。)に載せた供え物(茄子やトマトなどを刻んだもの)、その他、団子やご飯などその家による思いのままの飲食(おんじき)を供え、ほおずき(提灯(ちょうちん)の意味のようです。)と、みそはぎを飾り付けます。
 期間中の夕方には家の軒先か精霊棚につるされた盆提灯に火をともします。旧集落を除いては墓場が遠くにあることなどから13日の迎えには家の門口又は出口の角で、迎え火を焚き、先祖の墓参りをします。この時、真菰の幹(送り火迎え火に使うおがら)を適当な長さに切って足にして造った茄子(牛)と胡瓜(馬)を仏壇又は精霊棚に置きます。これは先祖を馬で速く迎え牛でゆっくりと送るという意味があるようです。
 そして(8月)15日(近年は16日に行う家もあります。)の夕方に送り火を焚き、盆提灯を持ち先祖を墓まで送ります。墓の前では、竹に真菰で編んだ棚(台)に飲食
(おんじき)を供えつけます。(但し、近年はほとんどが火葬墓地なので墓の周りが土になっていないことからこの棚の竹をさせない事由で、省略することが多いようです。)
 この送り火の習わしが、地方によっては精霊流しであったり、京都で行われる大文字焼きです。
 なお、新盆の家にあっては7月(8月)の1日から仏(前年の盆前七七日〈49日〉以降の亡者)の迎えが始まり、仏壇とは別に精霊棚を造る家が多いようです。
 この「お盆」の期間、寺(菩提寺(ぼだいじ))は、棚経(たなぎょう)に各壇家を廻りますが、寺によっては壇家の数が多すぎて新盆(にいぼん)の壇家しか廻れない寺もあるようです。
 寺で行う盆行事としては、「お盆」即ち「盂蘭盆会」を『施餓鬼会(せがきえ)』と称して法要を行います。
 この「施餓鬼会」は各寺によって法要の日が異なります。15日を「盂蘭盆会」即ち「施餓鬼会」を行う日と限定して法要を行う寺も多くありますが、その寺の本地仏の日に「施餓鬼会」を行う寺も多いようです。例えば、本地仏が阿弥陀如来であれば15日ということになりますが、本地仏が観世音菩薩(観音)であれば18日、に法要を行うという寺があります。また、近年は送りの日の16日に法要を行う寺も多く見られ、或いは直近の土曜日や日曜日に行う寺も多いようです。ちなみに当寺は毎年本地仏である弘法大師様の日、21日に「大施餓鬼会」を修法しています。



毎年8月21日に行われる当寺『大施餓鬼会』の施餓鬼壇

 このほか、茨城県のこの地域(つくば圏域及び周辺地域)の旧集落(明治22年4月1日町村制施行以前の集落区分のようです。)においては、古くから、「盆綱(ぼんづな)」といった風習があります。
 それは、盆の(8月)13日の迎えの日に真菰(又は藁)で編んだ大縄を、子供達に持たせ、墓場に行き仏様(集落内の各家の先祖の霊)を乗せるための言葉文句を唱え、集落内を一週練り歩く、つまり「盆綱」に先祖の霊を乗せて各々の家に先祖の霊を連れて行き、家の入口で降ろして行くということで、各家では桶に水を入れ、手ぬぐい又はタオルを用意して先祖様に足を洗ってもらうということのようです。そして子供達は各家の入口で菓子などをもらうこともあるようです。
 この習わしのある集落はどこも基本的には同じ風習のようですが、同じ町内であっても多少やり方などの違いはあるようで、「盆綱」そのものの縄の長さも、5mか10mか或いはそれ以上かは各集落によって様々であるようです。
 実施してる集落の方の話しによれば、集落の子供の人数により縄の長さが異なるようで、昔は男の子だけしかこの盆綱を持って練り歩くことが出来なかったようで、女の子はくっついて歩いていくだけっだったようです。
 しかし、近年は少子高齢化により女の子にも盆綱を持って貰わないとこの行事が出来なくなってしまってるようです。

 この習わしは、先祖への盆供養の一環行事のようですが、同時にこの周辺地域はもともと農村集落であったため、豊作や家内安全又は無病息災を先祖にお守りいただくという念を込めて祈願した行事のようにも伺われます。
 この習わしはとても良い風習だと思われます。
 いつまでも残していただきたいお盆行事だと思いますが、残念なことに集落によっては近年の少子高齢化が深刻な事由であるように、子供達がいないために既にこの行事が衰退してしまった集落が数多くあるのです。


  


 
【施餓鬼会の起源】(「お盆」「盂蘭盆会」の由来)
 釈迦の十大弟子の一人である目連(もくれん)(目(もっけんれん);Maudgalya-yana(モッガルヤーヤナ))の物語にはじまります。
 この由来は阿難尊者の逸話だと云う説もありますが、目連を信仰した方々が伝えた今も残る、亡き母の冥福を祈る一心な気持ち(供養)を喩えた話としてご紹介しておきます。
 目連は、中央インド、マガダ国のバラモンの出身で、知恵第一といわれた同十大弟子の舎利弗(しゃりほつ) と親友であり、共に舎衛城(しゃえいじょう)の街のはずれにある祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)(釈迦が滞在していた寺)に修行してました。目連はあらゆる世界を見通す天眼をもってどこにでも飛んでゆくことができる「神通力第一」といわれていました。
 長い雨期の修行を終えたある日の朝のこと、久しぶりの晴天の空のもと、ふと、亡き母を思い浮かべ木の下で瞑想に入りました。
 すると、亡き母が餓鬼道(がきどう)に落ち入り、飢えと渇きに苦しんでいる姿を見通してしまいました。
 “なんということだ。何故自分の母がそのような世界に落ちひどい目に遭わなくてはならないのか”と目連はすぐに神通力を使って地下深く暗い餓鬼道に下り降りてみると、餓鬼の姿になり苦しむ人々がたくさんいました。その人々は皆、目がくぼむほどやせ衰え骨と皮になって栄養失調の状態と同様に腹だけがふくれ、針金のように細い手足をひきずり、さまよい歩くありさまでした。見るにも無惨な光景の中で、目連はやっとのことでその中でうごめく変わり果てた母の姿を見つけだしました。
 目連は何とか食べ物を食べさせてやろうと神通力を使って母の前にご飯を盛った鉢を差し出しました。母はそのご飯を食べようと口元へ持っていきました。すると母の口から火が噴きだし、そのご飯が燃えてなくなってしまう。何度試しても同じことで、何も食べられないのです。目連は嘆き悲しみました。母もまた落ちくぼんだ目から涙を流し嘆き悲しみました。
 目連は、“必ずこの苦しみから救ってあげます。待っていてください。”と云うと、地上の世界に舞戻り、釈迦に涙ながらにこのことを話しました。釈迦が云うには、“貴方の母は、生前欲をむさぼり、物を惜しんでいました。死後になってその罪を餓鬼道で償うこととなったのです。貴方一人の力では母を餓鬼道から救うことはできません。”目連は、“それではどうすれば母を救うことができますか”と尋ねると、釈迦は、“この長い雨期に修行を終えた僧達が祇園精舎に集まってきます。その僧達に食べ物の施しを(供養)してやりなさい。そして共に祈念すれば、貴方の母も餓鬼道から救われるでしょう”と云われました。
 目連は、釈迦の教えに従い僧達への供養と祈念を行いました。するとその功徳あって、目連の母は餓鬼道から救われ、天上界に生まれ変わることができたといいます。
 その年から毎年、修行僧が行を終えるこの時期に皆を集めて食べ物をを施す大会(たいえ)を行い、餓鬼に苦しむ人々の供養にと、法要を行いました。即ちこれが「餓鬼を施す供養の会」としての「施餓鬼会」でありました。

 この物語は、私も最初はいつの頃から何処で聞かされてた話しか分かりませんが、今日、日本でも行われている「施餓鬼会」即ち「盂蘭盆会」となった代表的な由来のようです。

  


釈迦の十大弟子
 釈迦には五百人の弟子(五百羅漢(らかん))がいたといわれますが、特に「舎利弗(しゃりほつ)」「目(もっけんれん)」に代表される二大弟子をはじめとして、個々に優れた知恵や神通力を持ち、釈迦にいつも付き添い伝道生活を助けた側近の直弟子が十人いました。
 
摩訶迦葉(まかかしょう)(Maha-ka-s'yapa(マハーカッサパ);摩訶迦葉波、大迦葉、迦葉、迦葉波ともいう。)
「苦行に耐えた大迦葉(だいかしょう)」といわれる。
 中央インド、マガダ国王舎城(おうしゃじょう)マカシャダラ村のバラモンの出身で、当時様々な学問を修めた後に出家し、その三年後、釈迦の弟子となった。
 教団においては上席として常に弟子達の中心的存在として活躍した。釈迦の滅後には王舎城において第一結集(けつじゅう) (経典の編集会議)を主宰していた。
 少欲知足にして常に頭陀(ずだ)を行じ(衣、食、住の三種の貪りや執着を払う行)、厳格な性格で、心優しい阿難陀(あなんだ)とは対照的であった。のちに阿難陀に法を付して、釈迦の入滅後20年に鶏足山に入定した。
 
阿那律(あなりつ)(Aniruddha(アニルッダ);阿那律陀、阿泥盧豆、阿樓陀などともいう。)
「天眼通の阿那律」といわれる。
 釈迦族の出身で、迦毘羅(かぴら)城主浄飯王(じょうぼうのう)の弟の子(釈迦の従弟)として生まれ、諸学を修めた後出家し、釈迦の弟子となる。人々の教化につくし、洞察力がすぐれていた。
 ある日、釈迦が説法をしているときに居眠りをしてしまい、それを期に眠らぬ誓いを立てた。一説には眠らずに失明したともいわれる。このことを縁に真理を見透かす目(天眼)を得たという。
 
富樓那(ふるな)(Pu-rn.a(プールナ)
「説法第一の富樓那」といわれる。
 釈迦国迦毘羅城主浄飯王の国師(バラモンの長者)の子、釈迦(釈尊)と生年月日を同じくする。修学の後に外道で出家した。釈迦の成道(じょうどう)を知って鹿野苑(ろくやおん)で釈迦の弟子となる。
 弁舌が巧みで、釈迦弟子の中では説法第一と仰がれ、外国への伝道を志し、決死の覚悟で赴いた。
 
迦旃延(かせんねん)(Ka-tya-yana(カーチャーヤナ);迦多衍那、迦底耶夜那ともいう。)
「議論好きな迦旃延」といわれる。
 南インド、アヴァンティのバラモン長者の出身で、鹿野苑で出家する。釈迦に従い各地で巡教を行う。釈迦弟子の中では特に論議にすぐれていて論議第一と仰がれた。
 五人の同僚と共に帰依する者に対し釈迦弟子としての授戒を許されていた。
 
優婆離(うばり)(Upa-li(ウパーリ);優波離、波離、憂波利、波離ともいう。)
「持戒第一の優婆離」といわれる。
 もとはスーダラの出で釈迦族に仕えて迦毘羅城の理髪師であった。釈迦の成道後、阿難陀などと共に出家し、釈迦弟子となる。自らを厳しく修めた持戒第一として知られる。
 記憶力が良く第一結集(経典の編集会議)では、優婆離の記憶により教団の戒律が決められたともいわれる。
 
(らごら)(Ra-hula(ラーフラ);羅怙羅、羅吼羅、羅云、羅雲ともいう。)
「世話好きの羅羅」といわれる。
 釈迦(釈尊)が出家する直前に耶輸陀羅(やしょうだら)妃との間に生まれた子。
 釈迦の成道後に出家し、良く制戒(戒律)を守り、修道に精進した。密行(戒行)第一として知られる。
 一説には、釈迦は入滅の際、“自分が亡き後は仏法を良く守り人々に伝えよ”と16人の弟子達に遺言したといわれるが、この16人の弟子「十六羅漢(らかん)」の中には羅羅が加えられている。
※「羅羅」という名は、サンスクリット語で「障り」という意味であるが、伝説によれば、『四門(しもん)の遊観(ゆうかん)』の物語の中で、釈尊が北の門を出て乞喰沙門と出会い出家を決意したとき、王の使いの者が釈尊に耶輸陀羅妃が子を産んだことを知らせに来た。そして釈尊は、「障りが生まれた」とつぶやいた。このことを使いの者が「障り」という名前であるものと思い王に伝え、この名が付けられたといわれる。(参考;「十三仏」について【四門の遊観】へ)
 この釈尊がつぶやいた「障りが生まれた」という意味には単に自らの出家に妨げになるなどとういう意味ではなく、様々な学説的見解もあるが、俗世間に生きていく新しい生命の誕生に対する我が子への愛情の念があったように思える。
 
舎利弗(しゃりほつ)(S'a-riputra(シャーリプトウラ);舎利弗多羅、舎利子などともいう。)
「知恵第一の舎利弗」といわれる。
 マガダ国王舎城の北の那羅村に生まれ、隣村(拘律陀(くりつだ)村バラモンの子)の目連(目連)と共に六師外道の一人であった刪闍夜(さんじゃや)に従い各々に百人の弟子がいたといわれるが、釈迦の成道後に目連と共に釈迦弟子となる。
 早くから学徳がすぐれていたため、知恵第一として釈迦に仕えていたが、釈迦が入滅する前になくなった。
 『般若心経』などの経典では、釈迦の説法を受けるが大衆側の代表として登場している。
 
(もっけんれん)目連(Maudgalya-yana(モッガルヤーヤナ);目羅夜那などともいう。)
盂蘭盆会(施餓鬼会)の起源で紹介したように、「神通力の目連」といわれる。
 修行中に外道に殺されたと伝えられる。一説によれば、「勢至菩薩」(十三仏の一つ)は、目連の伝説を神話化した仏像だと伝えられている。
 目連は舎利弗と共に釈迦から特に信頼されていた弟子であったため、異教徒は、釈迦の威光を消滅させることをたくらんだ。そして目連が修行中に、浮浪児を金で唆し、石を投げさせ目連を血だらけの肉の塊にしてしまったという。このことを知った釈迦は、「生死は覚れる者にとってはたいした問題でない。目連の死は限りなく美しい。」と称賛したという。このことから後に勢至菩薩は目連の変化身(へんげしん)であると伝えられている。
 
阿難陀(あなんだ)=阿難(A-nanda(アーナンダ)
「記憶力抜群の阿難陀」といわれる。
 釈迦族の出身で、阿那律と同じく迦毘羅城主浄飯王の弟の子(釈迦の従弟)として生まれ、幼い頃から釈迦を慕って弟子入りし、25年間随行し教えを良く聞いていたので、多聞第一といわれた。釈迦の生前中には悟りを得られなかったが、釈迦の入滅後、大迦葉(摩訶迦葉)の訓誠により悟りを得て、第一結集(経典の編集会議)のときには大迦葉に協力して指導的立場にあったという。
 
須菩提(しゅぼだい)(Subhu-ti(スブーティ);須扶提、須浮帝、蘇部底ともいう。)
「空を覚った須菩提」といわれる。
 薩羅(コーサラ)国舎衛城(しゃえいじょう)の鳩留長者の子で、祇園精舎で釈迦弟子となる。
 釈迦の「空(くう)」の教えを良く理解したので、解空第一といわれ、無諍(むじょう)第一とも伝えられる。(諍とは煩悩を指す。即ち無諍とは煩悩のない状態をいう。)「諸法皆空」を説く般若経典に登場する。

  


六道と釈迦の降誕(ごうたん)
 「餓鬼道」とは、「六道」の一つで、「地獄(じごく)」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」「修羅(しゅら)」「(にん)(間)」「(てん)(人)」の六つの道(世界)のうちの「餓鬼道」を指します。
 この「六道」は、亡者が七番目の道(世界)としての「仏界(仏道)」に到達する途中にある道であるといわれますが、死後の世界だけにある世界を云うことだけでなく、現実社会に照らし合わせても表現されます。
 つまり、現実社会においても、災害や社会苦難の中で「地獄」の苦しみを得ること(者)があり、食べ物がなくて飢えに苦しむ「餓鬼」の境地に似た社会(生活)に遭遇すること(者)もありえる。或いは、犬、猫、家畜、野獣など、いわゆる「畜生」に似た扱いをされこと(者)があったり、一般にいう「修羅場」や「修羅の巷」というような、戦場や戦乱、闘争による悲惨を極めた場所(環境)に生きなければならないこと(者)もあり得る。かと思えば、ごく平凡な「人間」社会に暮らすこと(者)があれば、それ以上の楽園如きの環境を得て暮らす「天人の暮らし」ことができること(者)もあり得るわけであります。
 このように実世界においても「六道」は存在することから、釈迦は生まれながらにして「六道」を超越していたと讃えた「降誕(ごうたん)の物語」があります。
 その一方、葬儀の儀式の中で、茨城県のこの地域(つくば圏域及び周辺地域)の旧集落においては、未だに土葬の共同墓地が点在しているため、亡者に対する「六道」の風習として、葬儀の際に集落の組合で「六道さん」を人選する習わしがあり、その者達は棺桶の運搬や墓の穴掘りを行う役目を担います。
 この「六道」の次にくる七番目の「仏道」については、釈迦(釈尊)降誕(ごうたん)の物語として次のように語り継がれています。

 釈迦国迦毘羅城主浄飯王(じょうぼんのう)の妻、摩耶夫人(マーヤブニン)(摩訶摩耶(マカマーヤ);Maha-ma-ya-(マハーマーヤ))は、ある晩のこと“つの牙を持つ白象が天から降りてきて、摩耶夫人の右の脇から体内に入り、その純白の象は胎の外から透き通って見え輝いていた。”という夢を見たのであった。すると懐妊されていたという。それから十ヶ月の後、摩耶夫人は授かった王子の出産のため、生まれ故郷の天臂城(てんぴじょう)へ里帰りすることとした。その帰路の途中、ルンビニーの花畑を過ぎたところで急に産気ずき、ふと無憂樹(むゆうじゅ)の一枝に手を伸ばしたところ、右の脇の下から王子(「実名;ゴータマシッタルダ」迦牟尼世(しゃかむにせそん)つまり「釈尊(しゃくそん)」という。)が降誕(誕生)したという。その日は世紀前566年の4月8日であったという。
 そして、王子は、この地に降り立つと直ちに歩自分の足で歩き、手を上下に指し伸べ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と声高らかに宣言したという。すると、突然の雨が降ってきた(甘露の降水)という。

 この降誕の話は、釈尊の入滅後、釈尊が生まれながらにして既に衆生の六道を超越して七歩目の「仏界」即ち「覚(さと)りの世界」に到達したる者「覚者(かくじゃ)」即ち「仏陀」であったことを物語として表現したものであり、同時に生まれながらにして「波羅蜜(ろくはらみつ)」(六つの知恵の行)を既に修得していたと讃えています。それほどに釈迦は偉大な教主であった。いわゆる超人的尊者とする敬いと信仰心が創り上げた喩え話であり、いかにねつ造した物語であるとしても、今の時代、現在日本でも行われている「降誕会(ごうたんえ)」や「花祭り」などの行事においても、変わることなく語り継がれています。
 
 平成14年大施餓鬼会
向 山 寺 二 世 康 禅

「施餓鬼会」の起源
釈迦の十大弟子
六道と釈迦の降誕


  

 宗教とは何か(目次)」へ    彼岸へ   十三仏供養(目次)」へ   施餓鬼会にてへ   空海の生涯について   Q&A(見出し一覧)」へ   秘密荘厳(見出し一覧)」へ