弘法大師「空海」
 
 
 当寺の本尊、お大師様(弘法大師「空海」)の生涯について、私が学生時代に学んだことなどから、大要をまとめてみました。
 
 「弘法にも筆の誤り」とか「弘法は筆を選ばず」という有名なことわざがあるように、空海は字を書くことが上手であっただけでなく何事に対しても優れた才能をもっていました。「いろは歌」も空海が作ったといわれ、広く世間にわかりやすい学問の普及を行いました。当然に僧侶としても活動的な人であるばかりでなく、日本の真言密教の開祖として人々の救済にあたっていました。
 空海62年の生涯は、現世(この世の中)の栄達(立身出世)に背を向けて、仏法の世界にある悟りを求めて野山をさまよい歩いた若き苦行時代があったといわれますが、遣唐使として唐(中国)に渡って名僧、恵果阿闍梨(あじゃり)より密教をさずかり、帰朝して真言密教の教義を開花させるまでには、天台密教の開祖となった最澄(さいちょう)との出逢いや決別がありました。生涯に残し功績には非常にたくさんのものがありますが、代表的なものとしては、満濃池(まんのういけ)の修復や、万民のために授業料を無料にした学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」(現在の種智院大学)の設立などが有名です。


 
 【空海の生涯】
 
774年(宝亀5年)、讃岐(さぬき)の国(現在の香川県多度郡)屏風(びょうぶ)が浦に生まれる。
父は佐伯田公(さえきたぎみ)、母は阿刀(あと)氏の出身で、幼名を真魚(まお)という。
幼い頃から宗教心に富み、おさな遊びにも泥土で仏像を作って礼敬していたという。才能も豊かであったため貴者(とおともの)とも言われていた。
やがて叔父の阿刀大足(あとのおおたり)に連れられて、都(奈良)へ行き、官吏になるための大学に入学した。
大学で儒教を学んだが本来の自分が求めるものでは無いと思い、仏の教えを目指すようになり、大学を辞めてしまう。そして勤操(ごんぞう)大徳から仏教を聞き、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)「虚空蔵菩薩の真言を百日にわたって百万遍唱えれば、あらゆる教法の文義を暗記できるという行(ぎょう)」を授かる。
19歳の時、今の高知県室戸岬にある洞窟(御蔵洞)で求問持法を修行していたとき、(伝説によれば)口に明星が飛び込んできて悟りを開いたという。
20歳の時、勤操大徳を師として出家する。その後、方々の寺をたずねては、経蔵にこもり、経を読み続けた。かと思えば諸国の深い山に入って自らの修行を行った。
22歳の時、東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足戒(ぐそくかい)という戒律を受け「空海」と改名する。
仏教の修行を続ける中、24歳の時、『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、儒教、道教、仏教の中で仏教が最高の教えであることを主張して仏道に入る。
その後、久米寺(くめでら)(奈良県)の塔(とう)で『大日経(だいにちきょう)』と巡り会い、密教的宇宙観に引かれて行くが、その経典は梵字(ぼんじ)(サンスクリット語)で書かれていて意味の通じない点が多かったため、遣唐船で「唐」に渡り直に密教を学ぶことを決意した。
31歳の時(804年)、叔父の阿刀大足が仕えていた恒武天皇の第三皇子の取り計らいで、空海は遣唐使(留学僧)として「唐」に渡る。



 空海は最澄と同日に遣唐船で唐に向かったのですが、最澄の乗った船は唐の天台山に着いたのです。一方、空海の乗った船は航路で暴風に遭い、なんとか福州に着いたのですが、どうにも上陸が許されなかったのです。そこで空海は上陸の申請書を漢文で書き使いの者に渡し唐の勅使に送られたところ、見事な漢文の筆書きであったため、長安の都に上陸が許されたといいます。空海は入唐後、サンスクリット語(梵語)を学び、青竜寺(せいりゅうじ)に入り密教伝承の第七祖、恵果和尚より密教の正当な後継者として密教の全てを伝授されたのです。その時、恵果和尚より「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を頂いたということです。
 最澄は入唐より1年後(805年)に帰朝(帰国)し天台密教をひろめ、空海は入唐より2年後(806年)に帰国し真言密教をひろめました。
 最澄は空海より1年早く帰国し密教をひろめたため朝廷からも待遇されていたのですが、持ち帰った密教教義が不完全なものだったのです。このため、のちに、空海より金剛界結縁伝法灌頂(こんごうかいけちえんでんぼうかんじょう)を受け密教を学ぶことになりました。そして、筆授により密教を極めようとした最澄は、密教の境地である『理趣釈経(りしゅしゃっきょう)』を借りようと空海に求めたのですが、密教における秘密荘厳の奥義を適正なる解釈を以て学ばずして、単にその訳経を借りることだけで安易に解釈しては誤った解釈を招くのと空海は判断したため貸すことを断ったのです。最澄は弟子の泰範(たいはん)を空海のもとへ使わせ何とか『理趣釈経』を手に入れようとしたのですが、泰範は空海の教えに就いて最終的には空海の弟子になってしまったのです。このこで最澄と空海は決別したのす。

 
809年には、嵯峨(さが)天皇の時上京が許され、高尾山寺に入る。
809年、薬子の変が起こり、鎮護(ちんご)国家のための大祈祷(きとう)をする。
816年、帝より高野山を賜り開祖に着手する。


 
この高野山の開山は修行の道場の建設でありました。高野には霊峰として偶然にも不可思議なことや様々な伝説が数多くありますが、その中から次の話を紹介しましょう。
 先ずは、海抜三千尺(約910m?;私は山上町中のどの地点での計測か実際の標高は知りません。)という山中でありながら、水が豊富にあり、川まで流れていることです。そして高野を中心に八葉連峰が囲まれていて、これはちょうど蓮の花に見たてた極楽浄土を表しているといわれるのです。
 お大師さん(空海)がこの高野の山に入峰するきっかけとなったのは、現在の山内伽藍の根本大塔・金堂・御影堂の前に「三鈷(さんこ)の松」といって葉が三葉になった珍しい種類の松にまつわる話にあります。
 空海が遣唐使として唐(中国)に渡り、唐の明州の浜辺から“広く密教を広めたまえ”そして“密教流布の修禅(修行)の道場を示したまえ”と願いを掛け、“三鈷杵(さんこしょう)”(密教仏具)を日本に向けて投げ飛ばしたことに始まります。
 日本に帰朝(帰国)した空海は、この三鈷杵を探す旅に出ました。ある日のこと白と黒の二匹の犬を連れた猟師(狩場明神;高野山の地主神)が高野山に三鈷杵があることを告げたといいます。このことから空海は紀州に向かい、紀州の境にさしかかったとき、丹生(みう)明神に出会い、その道案内により高野山に入峰してみると三鈷杵が松の枝に掛かっていて、松の葉はすべて三葉になっていたというのが「三鈷の松」の所以なのです。
 また、この三鈷の松と御影堂の間には、密教教義を誤った解釈をした密教邪道とも言うべき信仰(立川流;男女間の性的な教義信仰)により作られた書物を没収して埋めたと伝えられています。
 少し余談な話ですが、私が高野山にいたとき、御影堂後ろの道路をはさんだところにある三角池には、天然記念物のモリアオガエルが沢山住みついていました。

 
821年5月、故郷、四国讃岐の満濃池の修築にあたる。満濃池からの洪水に悩む民衆の願いに、空海は修築の技術を発案し、池の側に護摩壇(ごまだん)を築き、空海を慕う人々が集まる中、修築工事が行われた。この空海が発案した建築技術は、現在のダム建築の技術にも使われている。
822年、東大寺に真言院を建立する。
823年、東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)と名づけ、真言宗の道場とする。
828年、綜芸種智院を創立する。
830年、主著である『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅしんろん)』を著し、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(生きながらに覚(さと)る密教教義)の理論を完成させる。
835年3月21日寅の刻、高野山にて入定(にゅうじょう)する。


 
歴史の上では、御影堂で最後の説法を行い「奥の院」に入定したとされていますが、本当は、御影堂の裏の道路をはさんだ斜向かいにある『龍光院』(別名「中院」という。)に入定した後、「奥の院」に籠で運ばれていったのです。
 
空海を慕う人々の信仰は厚く真言密教の信仰のみにこだわることなく、今の時代でも「同行二人(どうぎょうににん)」(お大師様「空海」と共にお大師様の歩いた道を歩いているのだという意味。)の白衣姿のお遍路さんが四国八十八箇所の寺々を巡礼しています。そして、無事に巡礼を終えると、お大師様への御礼(感謝・報告)の意を込めて高野山「奥の院」に参拝されています。
 
    平成15年8月21日施餓鬼会にて
 
向 山 寺 二 世 康 禅 

  

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