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1.文帝の困った親戚

仁君 漢の文帝は、苦労の人。その苦労の一つは、親戚のわがままだった。
特に困った親戚が次の三名

1.済北王 劉興居の謀反
2.淮南王 劉長の謀反
3.呉王 劉ヒ(水鼻)の入朝拒否

 ……かなり激しいわがままのようだ


1.済北王 劉興居の謀反-B.C.177年

仁君文帝の即位
高祖 劉邦没後(B.C.195)、中国三大悪女(?)の筆頭 呂后が実権を握っていた。
B.C.180年、呂后が亡くなると、漢の元勲 陳平・周勃らと、高祖の長男 劉肥の息子達 斉王の劉襄・劉章・劉興居の兄弟がクーデターを起こし、呂氏一族から実権を奪う。
元々、劉章・劉興居の兄弟は、 兄の斉王 劉襄を皇帝にするつもりだった。
しかし、外戚の専横に懲りた長安の宮廷、斉王 劉襄の舅 駟鈞が悪人だとして、高祖の息子、代王 劉恒を擁立した。 

文帝は、クーデターに功績のあった劉章を城陽王・劉興居を済北王とした。実はこれ、彼らの意図が 兄の斉王 劉襄の擁立とわかったので、与える国をケチったらしい。
これでは劉章と劉興居の兄弟は面白くない。斉王 劉襄と城陽王となった劉章は落胆したのか、まもなく亡くなる。なお斉王 劉襄には息子がいなかったので、国を没収した。

兄上達よ見ていてくれ!-三男の謀反
B.C.177年、匈奴が侵入したため、討伐のため文帝は太原へ出発した。
チャーンス! 留守になった長安の都を目指し、済北王 劉興居は挙兵した。
このため漢は匈奴討伐を取りやめ、文帝は長安に帰還し、済北王の反乱を鎮圧させる。
結局、済北王 劉興居は捕らえられ、自殺した。
のほほんと帝位についた(ように見える)文帝なんか認めたくないし、皇帝になるべき兄 劉襄ら二人の兄が死んで、悔しかったのかもしれない。

優しい文帝は哀れに思ったのかそれとも政策か、後継ぎのいなくなった斉と済北を合わせ、あらためて
斉・済北・シ川・膠東・膠西・済南
の六国に分け、劉肥の息子達(この高祖の長男 子沢山だ。3人死んでまだ6人残っている)に与えた。
この劉肥の息子達が成長してどうなるかは、また後の話

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2.淮南王 劉長の謀反-B.C.174年

さて文帝の受難はまだまだ続く。甥っ子の謀反に続き、今度は弟 劉長。
この弟は、出生からして激しい。

劉邦暗殺計画

B.C.202年 張耳の息子 張敖は亡父の後を継ぎ趙王となり、呂后の娘 魯元公主の夫となった。大変な道を選んだものだ。
B.C.200年 高祖 劉邦は、趙に立ち寄る。娘婿 趙王 張敖は実に恭しく接待するが、漢帝国の創始者、脚を投げ出し悪態をつく、態度の悪さでは適う者がいない。怒ったのは、大人しい娘婿ではなく、宰相 貫高ら家臣。張敖に劉邦の暗殺を持ちかけるが、大人しい張敖は大反対。よって、貫高ら家臣達が独断で暗殺を計画した。
B.C.199年、また劉邦は趙に寄った。娘婿 張敖は、劉邦が女に目がないことを知っていたのか、後宮の女に夜の相手までさせる。婿とはそこまでして舅に仕えるものか。
後宮の女は、劉邦の子を身ごもった。 
計画露見……やはりそれは無理でしょう
B.C.198年、趙王の家臣 貫高らの劉邦暗殺計画が発覚。
趙王 張敖・宰相 貫高・劉邦の子を身ごもった女など、趙王一族は逮捕された。
家臣達は次々と自殺するが、宰相 貫高だけは
「陰謀を企てたのは我々で、王は全く関係ない。ここで我らが死んでは、誰が王の無実を晴らせるものか!」
と厳しい拷問にも耐え続ける。
呂后は「私達の娘婿がそんなことするわけありません」と庇うが
劉邦「あやつが天下を取ったら、お前の娘ごときに不自由するもんか!」
……お前の娘って自分の娘だよね? 気の強い呂后、これではプライドが傷つく。 
そして数奇な皇子の誕生
例の女(名もわからない)は役人に「私のお腹には陛下の子がいます」と訴える。役人もそれは可哀相だと劉邦に進言するが、怒りにスパークしている劉邦は全く取り合わない。
よって女の弟 趙兼は、呂后の寵臣 審食其に釈放を頼む。
審食其は呂后に口添えするが、タイミングが悪かった。夫に罵倒され、寵臣から、夫の子を孕んだ女の釈放なんて頼まれれば、複雑な愛憎四角関係、受け付けるはずもない。呂后の機嫌を損ねたら辛い審食其、諦める。
女は子供を産み、絶望の中で自殺した。
やがて貫高の粘り勝ちで、趙王 趙敖の無罪が判明。貫高も釈放されるが、
「私は王の潔白を晴らすために生きてきた。謀反人の汚名を被って生きられようか」と自殺。
張敖は趙国を没収されるが、宣平侯に封ぜられ、娘婿の立場は安泰だった。
怒りが収まった劉邦は例の女を哀れに思い、その忘れ形見を呂后に育てさせた。この子が後に淮南王となる劉長である。
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母の仇を討つ

劉長は、間もなく(B.C.196)淮南王の位についた。なぜか審食其を母の仇として憎んでいた。仇は呂后か劉邦と思うが、大物すぎて手が出せないからか?
呂后が亡くなり文帝の代になり、ついに仇の審食其を殺した(B.C.177年)。
-それより呂后べったりの審食其が、呂氏族滅の際なぜ生き残ったのか私は不思議だ-
文帝はその気持ちが痛いほどわかるのか、不問にした。

高祖には8人の息子がいたが、文帝即位時には文帝と劉長だけだった。
ちなみに2人は普通に亡くなったが、残りの4人の死は恵帝も含め、直接間接、呂后が関わっている。
たった一人の弟ゆえ、文帝も無下にはできず、劉長も文帝に馴れ馴れしくし奢り高ぶり、誰もが劉長を恐れる。
やがて劉長は淮南国へ戻るが、国では皇帝と同じように振舞う始末。
ここでうるさいの袁オウ(央/皿)という家臣が、
「諸侯が増長すると災いが生じます。ここは王の罪を責めて領地を削るべきです」
とに進言するが、文帝は取り合わなかった。

驕慢王−最後の悔悟
B.C.174年 ついに劉長は部下たちに謀反させ、南のビン越・北の匈奴を誘った。しかし事体が発覚し、淮南王 劉長は長安に呼び出された。
大臣らは劉長の死刑を上奏するが、優しい文帝は弟にそんな酷いことはできない。
よって領地を没収し、蜀の田舎に流すことになった。
またうるさい袁オウ(央/皿)が登場。
「陛下が淮南王の増長を抑えなかったから、こうなったのです。それより淮南王は剛毅な方ですから、にわかに打ちのめしたら旅の途中で病死するかもしれません。すると陛下は弟殺しの汚名をこうむります」
が、文帝は「朕はただ、弟を懲らしめるだけだ。反省したらいずれ都に戻すつもりだ」
と、また受け付けない。
一方、蜀へ移動中の淮南王は
「俺のどこが勇者だって? 奢り高ぶって自分の過ちに気がつかなかったから、こんな目に遭ったんじゃないか!」
と悔悟し、絶食して死んだ。 
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せめて遺児たちには慈悲を

文帝、唯一の弟を失い激しく後悔した。
袁オウ(央/皿)は、
「陛下は三つの素晴らしい行いをしました。
・陛下が薄太后さまを看病された様は、あの親孝行の曾参に勝り、
・わずか六騎の馬車で代国から危険な長安に駆けつけた勇気は、あの孟賁・夏育に勝り、
・天下を何度も辞退されたことは、あの許由に勝ります。
よって淮南王の死は陛下の名誉を傷つけるほどのことではありません」
と文帝を慰めた。
この袁オウ(央/皿)って人は、何よりも皇帝陛下の名誉が大事らしい。

B.C.172年 文帝は劉長の子供達を不憫に思い、列侯にした。
この処置に対して、もう一人のうるさ型の家臣 賈誼は諌める。
「陛下は淮南王の遺児を王にするつもりでしょうか。あの子達は亡くなった父親を忘れません。例え国を分割して子供達に与えても、彼らは心を一つにして仇をなしましょう」
しかし文帝諌めを受け入れず、B.C.164年 淮南国を
淮南・衡山・盧江
の三つに分割し、劉長の三人の遺児をそれぞれの王に奉じた。

賈誼の予想-劉長の子供達への危惧は、武帝の時代に的中する。
生まれたときから傷を抱えた劉長が最後に後悔する場面、とても悲しい。

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3.呉王 劉ヒ(水鼻)の入朝拒否

一番困った親戚がこの人だろう。ただし文帝が生きている間はそれほどでもなかった。

叔父さん……謀反とはあんまりな言い草だ

B.C.196年、劉邦の兄 劉仲の息子 劉ヒ(水鼻)は、黥布討伐に従軍し、20歳の若さで見事戦果を上げる。
その戦功が認められたのか、呉王に奉ぜられた。
が、劉邦は、呉に出発しようとする甥の顔をじっと見つめていうには、
「お前には謀反の相がある」
これから呉の王としてがんばろーってはりきっている可愛い(くはないか)甥ッ子にそれはないじゃない?
「50年後に乱が起こす者がいるとしたらお前だろう。しかし身を慎み背くなよ」
口の悪さでも定評ある漢帝国の創始者、甥の背中を叩きながら追い討ちをかける。
「決してそのようなこといたしません」
甥っ子は健気にも頭を床につけて答えた。
……でも、こんなこといわれたら、かえって謀反でもやってみよっかなって気分にならないか?
ゲームに興ずるのもほどほどに
B.C.180年 漢の文帝 劉恒が即位。さっそく長男 劉啓(後の景帝)を皇太子に立てる。
ある日 皇太子 劉啓は長安にやってきた呉王の太子と、双六らしきゲームに興じていた。
が、ゲームも熱中すると危険。そのうち罵り合いが始まりエスカレート。呉の太子は相手が皇太子なんてお構いなし。呉の仲間も荒くればかり。
ついに怒った皇太子 劉啓は、重たいゲーム盤を呉の太子の頭にぶつけて殺してしまった。
文帝は息子のしでかした事件に頭を痛めるが(息子にも苦労する皇帝だ)、呉の太子の遺骸を父親 呉王 劉ヒ(水鼻)の元に送った。

呉王も人の親。跡継ぎ息子の変わり果てた姿を見せつけられては、黙っていられようか。
「我ら諸侯は劉家の者だ。長安で死んだのなら長安に葬るのが筋だろう!」
といって、息子の遺体を長安につき返す。哀れな遺体はようやく長安に埋葬された。
呉と長安を一往復してさぞ臭かっただろう。頭は潰れているし……。

息子が殺された地に来いとはあんまりだ
諸侯は数年に一度入朝するのが原則だが、呉王は息子を皇太子に殺されてから、入朝しなくなった
文帝は呉国の使者をしばしば長安で詰問したが、心優しい皇帝は思いなおす。
確かに入朝が原則だが、どー考えてもうちの息子が悪い。結局、文帝は杖を呉王に贈る。
つまり呉王は年老いているから入朝しなくても良いと特別に許したのだ。
怒り心頭に発した呉王もその場は収まり、呉国の経営に励む。
海水を似て塩を作り銅山から銭を私鋳したため人頭税はいらない。国は豊かであった。
そして、各国からの逃亡者を受け入れ、引渡しを拒否した。
税金がない。悪い事をしても匿ってくれる。なんて素晴らしい国だ!……ちょっと犯罪者の巣窟みたいだけど。
しかし、このまま漢の中央政府が見逃してくれるだろうか?
それは、次の景帝の代で明らかになる……。ってワザとらしい?
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呉楚の乱以前にあった、親戚関係の激しいトラブルを追ってみました。
特に、淮南王 劉長の話は、出生からドラマティックなので長くなってしまった。
2000/1/30 記

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