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新井素子『チグリスとユーフラテス』

以下は、ネタバレ感想文です。読んでない方には、退場をすすめます。

私の新井素子体験・・・「あたしの中の」「いつか猫になる日まで」「絶句」「ひとめあなたに」「おしまいの日」・・・そんなもんだ。
たった5冊しか読んでいない。が、どの作品も好きだった。
ひっさしぶりの新井素子体験だった。が、以前読んだ作品と、変わらない世界にほっとした。
変わったのは私かもしれない。以前は作品と同化し共感したが、今回は違和感を覚えたのだ。眩暈がした。身体がぐしゃぐしゃにかき回されたよう。
しかし、私にとってこの作品がマイナスかというと、決してそうではない。一晩で読みきれるというのはポイントが高い。そして、心底からこの作品に出会ってよかったと思っている。
それでもつい書いてしまう。その「違和感」について。好きな作品であることは間違いないが、気になるのだ。


1.コールドスリープとは?

SFでお馴染みのツールだ。この作品では、現代の技術では直せない病を、未来の技術に希望を託すために、使われる。
この手のコールドスリープが登場する作品で、私が思いつくのは、手塚治虫の『ブラック・ジャック』。ラリィ・ニーブンの『時間外世界』ぐらい。多分、SFじゃ定番の使い方だろうな。
『ブラックジャック』は、コールドスリープ自体がネタになっている短編だから、まあいい。

ショックだったのは『時間外世界』のコールドスリープの捕らえ方だ。
主役がコールドスリープから目覚めると絶望的な未来の世界。未来世界の管理人は、過去からコールドスリープ患者を勝手に押し付けられた未来の人間として、不当な義務を負わされたことをうったえる。
驚いた。そうなんだよね。未来社会の医療に希望を託し、コールドスリープに入る。が、未来社会はそんな何百年前の人物の身体を維持する義務も、目覚めさせて病気を治してやる義務もない。実現するかどうかわからない技術を前提とした「契約」など、成立するはずがない。

この作品でコールドスリープに入った人は、いずれも「特権階級」に属する。だから、考え方がブッとんでるのはわかる。が、私は、マリア・Dが言うほど、ルナの行為が残酷とは、どうしても思えんのだ。
不治の病におかされたコールドスリープ患者からすれば、治療を受けられないのに目覚めさせられ、三ヵ月後に死ぬというのは、残酷だろう。この視点は確かにすごい。
しかし未来からすれば、これほど甘ったれた言い分はないよな。仮に、ナインで、特権階級のコールドスリープ患者に対して、何らかの法律が規定されているとする。が、社会がすでに崩壊していても、彼らは守るべき存在なのだろうか?

コールドスリープに入った患者を前に、家族は何を思うのだろう? その人を救えなかった自分の無力さを見せ付けられる。装置のスイッチを解除したくなる衝動に、何度も駆られるだろう。コールドスリープに入るというのは、ある意味残酷な行為だ。残酷な行為を選択した人間に、他人の残酷さを糾弾する権利があるんか? と思ってしまう。
作品中に、コールドスリープ=自殺という表現が、何度か出てくる。その視点も新鮮だ。私が『時間外世界』を読んでいなければ、100%マリア・Dの感情に同化できただろう。が、不幸にして、コールドスリープ患者を押し付けられる未来の人間の気持ちを知ってしまった。だから、私はどうしても、マリア・Dの言い分が、身勝手に思えてならない。

残りのコールドスリープ患者は、二度と目覚めないだろう。それは、患者にとって幸せなのだろうか? いつか直るとの希望を胸にずっと眠り続けるのと、死を覚悟することと・・・レイディ・アカリは、コールドスリープに入る側の辛さを語っている。死ぬことも許されない、と。
二度と目覚めないことは、幸せなのか? それとも最後の三ヶ月でもいいから、残りの人生を全うするほうが幸せなのか?

2.出生率が下がったら・・・

ナインの末期は、出生率が下がっている。しかも、女性より男性の方が少ないのだ・・・とくれば、「じゃあ、一夫多妻制にすりゃいいじゃん」と思ってしまった。ごめんなさーい。どうも古代史のサイトを作っていると、すぐそういう発想になってしまう。毒されていますね。あ、私はもちろん、一夫多妻制は賛成しません。
ただ、子供が生まれない状況で、厳格な結婚制度を維持しているのがすごい。むしろ、結婚制度などどうでもいいから、とにかく子供を作りやすい環境に持っていったら? とまた、不謹慎なことを思いついてしまう。ごめんね。

まず「人工子宮」の使用が禁止される。これが感情的な理由らしい。すると、絶滅へのカウントダウン状態でも結婚制度を維持しているということは、やはり、感情的な理由だろう。しかも、イヴ・Eは、「最後は宗教にかえってしまう」という。非宗教的な世界を作ったというのに・・・。
が、ナインはもともと宗教的な世界なのだ。創始者のリーダー、キャプテン・リュウイチとレイディ・アカリへのナインの感情は、信仰そのものだ。この「夫婦」への信仰が根底にあるからこそ、結果的に「人工子宮」は禁止され、最後まで厳格な結婚制度を崩さなかった・・・というのは、どうでしょう?

歴史上でも政権交代時には、「なぜ、そうしなかったの?」という疑問が、現代人からするとわく。が、違うんだよね。滅亡へのカウントダウンに入ると、自ら滅亡したがってるとしか思えない行為に入るのかもしれない。
ウェブで、いろいろな人の感想を見た。出生率増加対策がほとんどされていないのは変だ、と指摘されている。私も、あれ? と思った。が、むしろ、滅亡前に対策がされないことのほうが、リアルかもしれない、と思い直したまでです。

私は、厳格に保管されているコールドスリープ患者やら冷凍精子や卵子が、最後に活用されるかと思った。が、そういう展開のストーリーではない。
ルナは、それを活用できないだろう。そして、マリアにも朋美にもアカリににも無理だ。が、ダイアナがあっさりその可能性を否定したのは、なんだかな〜である。朋美のように、復活しても問題ないケースの患者を探せばすむことでは? それ以前、まだ100人程度残っていた時点で、この患者を復活させようと思わなかったのは・・・精神的な理由としか思えない。ルナの人々は疲れたのだ。自ら望んで滅亡したのだろう。

3.誰がこの小説を書いたのか?

もちろん、新井素子に決まっている! だけど、私はもとが理屈っぽい性格(そのくせアバウト)だから、その構造が気になるんだよ。

「マリア」編は、最初から最後までマリアが書いている。が、次のダイアナ編になると様子が違う。ダイアナの手記と、地の文が交互に出てくる。この地の文を誰が書いたのだろう? 作者がそのままストレートに書いたとしていいのか?
私はてっきり、ダイアナが地の文も書いたのだと思った。三人称で自分のことを「ダイアナ」とワザと書いたのだろう、自分を客観視して記述するための手段として。じゃないと、作者が客観的に三人称を使って書いたとするには、どうも引っかかる。
しかし「ダイアナ編」がダイアナが書いたとするには、無理がある。なぜなら、ダイアナの死が描かれているのだ。
同じことは、朋美にもアカリにも言える。が、どうしても私は、これを作者がストレートに書いたとするには、文章に引っかかりを感じる。とくに、しばしば登場する括弧()で補足された部分が、あまりに感情的すぎるのだ。

おそらくこれは、ルナが書いたのだろう。そうすると納得できるのだ。じゃあ、最後のシーンはどうなるか? ルナの死後の情景は誰が書いたのか?
これは、新井素子が書いたとしてもいい。または、死期の迫ったルナが想像して書いたとしてもいい。

いわゆる新井素子の文体に、抵抗をおぼえる人は多いだろう。私はわりと好きだ。が、今回ひっかかったのは、しばしばでてくる、格助詞「は」の省略だ。
「ダイアナ、○○する。」という表現が、あまりに多い。なんらかの効果を狙ったにしても、頻繁すぎる。実際の日常会話では、この「は」は、省略するけどね。わたし、おなかすいた。わたし、ねむい。わたし、つかれたetc・・
最近の小説では、それが普通なのかな? 私も大分年取ったみたい。

4.ルナの結論

これ、ハッピーエンドだろうか? やはり私は怖い物語と思った。
遺伝子プールとしてルナの存在意義があるというのは、地球にとって・・・かなり迷惑な話では?
生物に災厄が必要なわけでもない。また進化が絶対必要というわけでもない。それは結果論だ。
わざわざ災厄の種を温存することに意義を見出すというのは、前向きの結論とも思えないな。いくら生きがいがないからといってそこまで飛躍するのは、そうとう身勝手な気がする。
ルナがそうでも思わなければやってられない、というのはわかる。が、私は、何も残さないという生き方だって、不毛とは思わない。


文句ばかりになってしまった。でも好きなんです。いろいろ考えさせられるという点が本当に好きです。違和感を覚えても、作品のパワーにはただただ恐れ入るばかり。
何よりもいいのが、SFであると同時に、現代日本の話であることだ。このスクランブル感覚にも私は眩暈を覚えた。一つには、私が、マリア・ダイアナ・朋美といった女性と年が近いからだろう。これは、この年代の現代日本女性がかかえている問題だ。そういう意味では現代を舞台にした小説だ。
しかし最後の子供という設定は、まさにSFでしかありえない。SFであると同時に現代小説というスクランブルを、嫌う人もいるだろう。が、私は小説を読んで眩暈をするというのは、すごい体験だと思う・・・いや、皮肉ではなくて本当に絶賛しているんです。


付記:2001/11/13
二日前にアップした文章だが、かなりキツイ言い回しだったので、直しました。まだひどいなあ。
この小説は、重箱の隅をつっつくのではなく、表面のメッセージにとらわれるのでもなく、ことばで言い表せないイメージの世界を堪能するべきものだろう。
これは作品の問題ではなく、私の問題だ。ここしばらく小説を読んでいなかった。ましてやSFなんて久しぶりだ。歴史解説書を読むのりでSF小説を読んじゃまずいよな。フィクションの健全な楽しみ方を忘れているようだ。
昔は新井素子の世界に100%同感できた。今は、シンクロ度が落ちている。それが寂しくてショックなのだ。私は、かなり俗っぽい人間に堕落したようだ。

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