…染色への道…

染色の道に入ることになった、そもそものきっかけは1963年にはじまる。 中学3年生の卒業前。その頃、「金の卵」といわれもてはやされた団塊の世代。
東京に出ていた姉が後に師匠となる先生と知り合いだったせいもあり、あるとき「誰かうちにきてくれる卒業生を知らんかね。」と言われ、すかさず「いるいる!」というのがきっかけだったと聞いた。
その頃は進学する人がほとんどだったが、家庭の事情があって、ぼくは進学をあきらめた。就職はぼくの知らないところで卒業する半年前から決まっていた。 早く東京へ行きたかった。 担任の先生の自宅(住職)に直談判に行った。ぼくは一人で行くつもりだったが学友が二人付き添いで付いてきた、先生は、ぼくの言葉をひと通り聞いて決心の固さを知ってか、卒業前に東京に行くことの了解を得た。 卒業式には出席することを約束をして…。
あの頃はそんなことが出来たんだね。おおらかな時代だった。


染色家の先生に最初の接見は、姉と一緒に卒業前の夏休みを利用して旧国鉄の高田馬場駅だった。 今思うとあのころの先生は50代か、ずんぐりした骨太の印象で精悍な感じだった。
駅の前はトタンが赤く錆びたバラックがひしめき合っていた。東口で逢った。暑かった。 それからタクシーに乗り、東に向かって牛込矢來町へ着いた。牛込消防署のすぐ側の工房だった。
何を話したかは覚えてないが、とにかく遊びのつもりで居なさいみたいな感じだった。そして二階の仕事場へ案内された。 仕事場の皆さんはこのことは承知していたらしく挨拶してくれた。

見たことがない光景、道具類に驚いた。 まず目にしたものは伸子(しんし)と言うもので反物を張っているさまは、まるで空に浮かぶ凧の如し。 みんな真中に穴のあいた四角い机の前で、火鉢を抱えて刷毛(はけ)で色を塗るもの、溶かした蝋を筆につけ滑るような筆裁きで描くもの。そのときの人数は先生を含め四人だった。
卒業まで職場の環境慣らしのつもりのスタートだった。 大人たちの中での生活は緊張した。
最初の失敗は入ってニ、三日後に計画された職場の慰安旅行に一緒に行くと言う前日、不覚にもふとんに漏らしてしまい、そのことを言えなくて恥ずかしくてその日の朝、職場を抜け出してしまった。
あとで聞いたことだが、次の日職場ではいなくなったぼくをみんなで探したそうです。 ぼくは最初来た道を思い出し、西(高田馬場)へひたすら歩いた。駅が「飯田橋」にもあるのを後で知った。こちらのほうが近かったのに…ひたすら歩いた。真夏だったので暑かった。そんなことも知らずぼくは、姉のところへ行っていた。のんきだった。 結局、旅行が終わってから職場に戻った。”職人の世界”への始まりです。

そして一週間後、自転車で外回りの途中でまたまた失敗。 公園の上のほうから坂になっていて下のほうが見通しのよくない小さな交差点で、無謀にもブレーキもかけずにその交差点を突っ切った。
次の瞬間、左側に黒いものを感じた。

「大丈夫か。」の声で気が付いた。「大丈夫です。」と言ったまでは記憶しているが、その後は目の前が真っ暗になり何も記憶がない。
薄れた気力で我に帰ったときは見覚えのある病院のフロントの風景だった。 そこは数日前、夢で見た光景だった。天井が高くて薄暗いがフォールの真中に暗いグリーン色のレザーのような大きな円形状の椅子があった。中央の背もたれが高くなってた。
突き当たりがエレベーターだった。そして、何人かのおじさんたちに混じって治療した。
病気じゃなかったのでご飯がやわらかいのに看護婦さんにクレームをつけた。おじさんたちは15歳のぼくを、”おとのなのハナシ”でからかった。
卒業式まで入院してしまった。病室で誰かのラジオから「シェリー」や「悲しき雨音」、「ロコモーション」の曲がよく流れていた。


元気になって現場を見にいったとき、なんと落ちた所に衝突防止の大きな石があった。黒い乗用車のフロントにぶつかり向こう側へ飛んだらしい。
運が良い事に相手方は”電飾関係の社長の車”だった。 見舞いにきてくれた社長に「悪いのは君だよね。」といわれ「うん。」と認めたことでその社長はすべての治療費を負担してくれた。
そして少し太って退院。

姉に言われた。「”石の上にも三年”なにがあっても我慢しなさい。」と
でも最初の三日、一週間、一ヶ月と「やめたい」が襲ってくる。そのたびにぼくは姉に愚痴をこぼし「そう大変ね、そんなに言うなら仕方ないけど、でも、もう一日やってみたら。」と姉に言い含められ、のこのこと職場に戻ることを何度も繰り返した。


最初の仕事の内容は、自転車に乗って仕立て屋さん、紋屋さん、引き染ぞめ屋さん、湯のし屋さん、蒸し屋さん、ドライ屋さんなどに反物を運ぶ”外回り”だった。3年たつ頃、原付免許を取れる年になった。この頃の原付(50cc)はクラッチ付だった。慣れるまで大変だった。



ある日、雨が上がりかけた若松町から神楽坂、飯田橋へとつづくカーブのところで路面電車のレールにオートバイのタイヤを取られ転倒。オートバイは投げ出されたぼくを路面に置いて、まっすぐに前方向へつっ走って行った。
あわや店に飛び込むその寸前にオートバイが倒れた。レールの上に転がったままそれを、ただ見ているぼくだった。


こんなこともあった。早稲田のなんたらいう神社下で、それは祭りの後だったと思うがアスファルトの道にうっすら砂が一面にあった少し下り坂のカーブのところでハンドル操作を誤り転倒。
しかし、思えばよく転んだ。

ズボンが裂け、足は擦り傷だらけになり砂混じりの血だらけだった。夏だったので太陽で傷口がヒリヒリ痛かった。 その頃の初任給は住み込み、食事付で8.000円だった。先輩に言わせると3.000円ほどぼくのほうが高いといっていた。

着物制作の最初の一歩は、花や植物のスケッチをすることだった。 毎日、バラや牡丹、あやめ、つつじなど草花スケッチに明け暮れていた。
下絵(したえ)の図案を描くための”線”描きの練習。 これは師匠の書いた図案を硯に墨をすり、半紙に細い毛筆でなるべく細くなぞり写し取る作業で、長い期間の課題になった。 線が描けるようになると先生が描いた下絵を藍花という液体で、白生地の着物や帯に写し取るのがぼくの仕事でした。
それと平行して染色工程の最終処置の”箔仕上げ”や、臈纈染めした生地の蝋を新聞紙で取るアイロンがけや、外回りなどを三年余りした。
その頃の仕事全般は花柳界の華やかでモダンな”引き着”や”留袖””振袖”が多かった。 仕事のテンポは、お昼が済むと庭に卓球台を出しみんなで遊びに夢中になった。昭和37年~38年ごろだった。

染色家の卵が仕事にも慣れ飽きて、三年たったころまた「やめたい」症候群がやってきた。
ある日、師匠に談判した「もうやめます。今度はほんとに、やめます。」と、先生は涼しい顔で「いいよ。」 「ああよかった、これでこことさよならできる。」と思い胸をなでおろした。
「いつやめてもいいから、もう一日だけいてみたら。」と続いた。 「えっ、いつでもいいんだ。」そう考えたら「もう一日いてみるか。」なんて単純なあの頃だった。

そしてある日やっと”蝋筆”を持てることになった。 記念すべき、ぼくの”臈纈染”が始まった。18歳ごろのこと。

仕事をしながらラジオをよく聴いていた。主に洋楽ポピュラーソングを聞いた。先輩はプレスリーが好きでぼくはビートルズを聴いていた。
先輩はビートルズの曲をかけると「うるさい曲だ、こんなの歌じゃない。」といって先輩のラジオとぼくのラジオが職場でよくもめていた。
もめるといえばよく先輩達に逆らって喧嘩もした。わがままを通しているのか意見を言っているのか解からないうちに喧嘩になった。
三人いた先輩とそれぞれと喧嘩した。


あるときは炭火のことで、これはその頃、朝一番に炭火をおこして、みんなの火鉢にそれぞれ入れて準備することがぼくのが仕事。
ぼくの火鉢に火がなかったとき、先輩は「この炭火をつかいな。」と親切に言ってくれた。 それをぼくは拒否し「自分で起こします。」と言って譲らなかったもので先輩は怒ってしまい喧嘩になったこともあった。

また、あるときはなんだか理由は覚えていないが外へ逃げ出し先輩に追いかけられ「殴らないから止まれ。」「ほんとに殴らない。」のやり取りを何度も繰り返しやっと、走るのをやめた。なんてことがあったっけ。 まだまだいろいろあるけれど思い出したら又書くつもりだ。
先輩たちもこんな後輩で手を焼いたと思う。 後に聞いた話に先生が先輩たちに「あいつ(ぼく)にはかまうな。」と通達が出たそうですが、その中の一人はその後も何かと、かまってくれた。

ぼくは17才~18才ころから口ひげを生やしはじめた。いまでも生やしている。師匠に「おまえは何で、ひげを生やしているんだ。」と問われ「何でって、ファションかな。」って答えたことがある。質問の意味がわからなっかった。
正直なところ自分の中でも理由など無かった。少なくても威張りたいから生やしているとは思っていなかった。
その頃はまだ若者たちの中でも”ひげ”は珍しかった。

ぼくの仕事机は師匠と真正面に向かい合う位置にあった。よく仕事中に”先生”と目が合ってしまい、にらみ合うような状態があった。
特にぼくが仕事がうまくいっていないときは”先生”を睨らんでた。先生はきょとんとして「何んだ。」と言う顔をしてたっけ。
そろそろぼくが4年ぐらい経った頃、ぼくの後輩たちが入ってくるようになった。 あの頃は新聞の求人広告欄によく染色家の募集が載っていた。染色業界が華々しい頃だった。

”東京オリンピック”前後の頃だった。


毎日、月末近くになると締め切りがあり深夜まで仕事をさせられた。
ぼくはそんなに根気をつめてやっても、仕事の発注先ではありがたいなど感謝することは無い。と思い余り乗り気ではなかった。
しかし、先輩の仕事の進め方には反抗は許されなかった。職場の人数も増え仕事はどんどん忙しくなる一方だった。染色界全体がそんな状態だった。
その頃から給料も上がっていった。
ぼくが一番上の”先輩”の立場になった21才の頃、後輩が5~6人ぐらい居た、女性も何人かいた。職場が賑やかになっていた。


30年あとで聞いた話だとその頃のぼくは仕事をしてる間は『ラジオをイヤホンで聞いて黙々と”自分の世界”に入っていて話し掛けても返事しないし頼りにならないと思ってた。』といっていた。その頃も忙しく、徹夜することもあった。後輩たちには定時にしまってもらい、ぼく1人でやることが多かった。 自分の経験したときを考えるとそれがベストと考えた。良いか悪いか解からないけど…。 23歳ころ父親が亡くなった。(母は小学三年生のときに病死している。)

いよいよ独立まであと数年。 一番ショックだった思い出がある。それはくだらないといえばくだらないことだった。「自分専用の鋏(はさみ)が欲しいが、買ってもいいか。」と、ある後輩が言った。 ぼくは「いまある鋏をみんなで使いまわせばいい。」と答えた事で口論になり彼は頑としてぼくの意見を拒否した。
ぼくは余計な出費をしないようと主張した。先生に「おまえが悪い。」の一言で片付けられた。 彼は大学卒業して3~4年経ってから入ってきたから28才~29才だった。ぼくは22才~23才ごろだった。
そしてその夜に彼がぼくを階下へ呼び出しいきなり顔にパンチを食らわせた。その階下は台所だったので発作的に側にあった包丁を握っていた。
他の後輩のひとりが騒ぎを聞きつけぼくを”羽交い絞め”にして止めた。
そのとき急に「こんな奴殺しても損するだけだ。今おれが殺らなくてもめぐり巡って、しっぺ返しが必ずある!」
嘘みたいだがそう思った。 踏みとどまってよかったと思う。

鼻の骨傷が、いまでも触ると出っ張っている。悔しかった。


あと数年すれば独立できると思いそのとき”やめる”のを我慢した。そして、お礼棒行一年。通算11年いて独立。

独立だ!!! 胸膨らませ、いよいよ引越しの段階で先生が「何か必要なものを言いなさい。」と言われたけど丁寧にお断りをした。
でも本当はお金がなくて引越し(たいした物は無かったけど)の運送代にも事欠いていた。
貯金箱を壊して運送料金に当てた。落ちついた頃先生がアパートに来て「染料代を出すから染料買いなさい。」と言ってくれた。
素直に好意に甘えた。うれしかった。


この時代から更なる運命が待ち受けていた。その頃はまだ気づいていなかった…。

まだまだつづいた、苦難の道…