★INDEX Atelier DADA★駄々ism//テキスタイルアート、ファッション、アパレル、バッグ、ニット、ウエアー

“アートもおしゃれ着に”を目指して「布の職人」が手間を惜しまず制作しています。

筑波山が見える田園風景が広がる地域で天然素材にこだわってこつこつ

貴金属や宝石とは違う布の持つ温かさが感じられる仕事をしたい。



「自分に、ご褒美(ほうび)」に、「大切な人にプレゼント」に喜ばれる作品を揃えています。

★★ アトリエ駄々のイベント 展示会 などの情報はこの ホームページ や地域紙「常陽リビング」でお知らせいたします。★★





アトリエ駄々は、自分らしい生活スタイル • ファッションを推奨します。

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ContentWriter/YasuhiroKawakami












裂き織ってとても奥深い代物で歴史も古く、すごいエコロジー。

ぼくが最初に裂き織を見たのは小学生のころになる。 友達のおばあちゃんが織っていた。









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田園からの風景-筑波山



色いろ創る人

DadaYasuhiro

DadaGoods






変幻自在
手描き染め作品Dyeing
出来上がり製品は手作りのため多少柄行、色目が違ってきます。

15才からやってきた染色です。

染色には蝋纈染め、絞り、捺染、友禅、無線描き•••などがある。

またそれぞれの染め技法には数知れない組み合わせが出来ます。その作家のアイディア、素材によって無限に表現可能です。

そんな世界のほんの一部ですが駄々の作品を見て下さい。

僕が染色を始めたきっかけは「染色への道」に書いてあります。

参考になりますかどうかわかりませんが•••。









ECOの先駆者
裂き織り作品weaving
同一柄、色目商品はありません。

むかし昔、北の国では木綿は採れず木綿を大切に扱っていました。その製品は貴重だった。

着古した木綿地は刺し子で補強したり、それにも使えないものは裂き織として再生して生活に役立てていました。

ぼくは岩手の「裂き織り伝承館」で見た織物で触発され織りを覚えました。裂いた布を緯糸にして織るのが裂き織です。

布が糸となり又布となってリサイクルで甦る"もの"たちはすばらしいです。









男が編む
手編み作品Knitting
毎日編んでいます。同じものが出来ません、編糸は手染めしています。

僕の編物暦は1988年あたりからです。なので結構編んでますね。市販の毛糸はもちろん生成りの毛糸も染めています。

結構やってみると奥が深いニットの世界を楽しんでいます。

ちょっと前の昔、船乗りは自分のセーターを編んでいた。男の仕事だった。

世界を見回すと結構男性も編物しているらしい。

男性も女性も楽しいことはどんどんチャレンジしたいものです。









縫いもの
自家縫い作品MachineSewin
柄ゆき、色目が違っていることがあります。

僕が縫製をするきっかけは、外注をするには資金力がなくて•••。それなら自分で縫えばいいのじゃないか、が始まりです。

型製図から、カッティング、縫製、染色と全工程をやっています。

手間をかけた分、お客様に認められた時を喜びに今日も入魂仕立。

バッグ仕立ては最近は"ひさゑ。"がやっている。











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"ひさゑ。"の—針しごと  絹細工—

2017年のえとです。



"ひさゑ。"の作品、僕も好きです。幼少時から、いろいろな生地をノートにファイルしてるのを今でも持っている。

「母親の傍らでみようみまねでお人形を作っていた。」そんなこだわりの子だったようだ。三つ子の魂か。現実生活は厳しいが製作中の姿はとても幸せにみえる。

♥細かい手仕事なのでなかなか仕上がっていきません。細工物をしているときは時間を忘れて没頭できます、楽しいですが端布が捨てられなくてこまっちゃう。!!


大きさは、ほぼ手のひらサイズです。   布柄色サイズが同一ではありません。






うし


とら


うさぎ



たつ





うま


ひつじ


さる


とり


いぬ


いのしし







紅い靴


ヘチャ猫


皐月わらべ





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•••••••••••ヤスヒロのぐちぐち日記•••••••••••

’17/8/11/fri

八月に入ったとたんに秋が来た。そんな感じで夏終わりですかね。体は楽だけど。稲穂はまだまだ若くて頼りなく生えている。他府県では台風の被害甚大で大変ですが、環境回復を祈るばかりです。僕の住んでる茨城はいまのところ比較的平穏です。


’17/6/26/mon

市民ギャラリーでの個展終了しました。全般お天気に恵まれました晴れ男でした。

お客さんも4日目あたりからぼちぼち着ていただきありがたいことです。


’17/6/24/sat

ただいま、つくば「市民ギャラリー」で展示会を続行中。

今日を入れて後二日。初日は雨になってしまった。が、その後は比較的お天気に恵まれています。

お客さんも三日ぐらい来ていただけなかったが四日目あたりに見に来ていただいた。

地域紙「常陽リビング」を見てきた人が数人いた。

まだまだ知られていない駄々です。


’17/6/8/thu

5月28日の夜食、カレーを食べた。

その後まもなく顔の一部がかゆくなってきた。何時間かあとには顔がむくみ始めた。

くすりヒスタミン1錠すぐに飲んだが、帰宅してからどんどん顔がはれ上がり大変な状態になった。

そしてその夜が明けて鏡を見てビックリ仰天!!。

まぶたもほほも硬く腫れ上がりとても僕の顔じゃないみたいになった。写真もあるが載せない。だって、みっともない無いモン。

その日をピークに一日、一日と腫れが引いてきた。一時はこのままこんな顔と付き合うのかとガッカリしてたが安心した。

7日目薬も切れて顔も元よりスッキリしたような感じ。ちょうど腫れたぶんが弛んで皺が出来ている。その日に血液検査の結果が出た。

先生の話では他の数値は問題ないがアレルギー反応が出てエビ、カニの数値が非常に高いといわれた。

もしかしたらちょっと傷んでるかもといったカミサンの言葉を信じ豚が原因かと思ってた。意外。

なんだろう。思い起こしてみると、海産物らしきものといえば「ひじきのおから合え」しか思いあたらない。ネットでヒジキ調べたら又ビックリ、砒素含有量が高い

慢性砒素中毒に、「皮膚が腫れる」の項目あり、これかなと思った。

カミサン料理を何を出していいかわかんないといった。ちょうどそのときのネット検索で「一汁一菜」を勧めてたサイトを紹介した。

カミサンもそのことは知っていた。僕は今後ヒジキは食べない。その代わりにパセリを食べる。と宣言した。これもネットで調べた。

顔はきれいになった。


’17/5/2/tue

1年の中で一番好きな季節5月。

今年の桜は見ていない。満開のときはデパートの中で働いていた。

いま新緑がきれいだ。田んぼに今年も水が入り田植えの時期が来た。

あやめ、かきつばた、山藤、山吹、さつき、植物たちは一斉に花を咲かせ競っている。なんか希望を感じる時期だ。


’17/4/10/mon

4、5年ぶりに所沢の西武で展示販売をしてきます。どうなりますか。


’17/3/30/thu

昨日長年持っていた自動車免許を返納した。

去年、更新したばかりで5年近く残っていたが車も無いし、この先運転もしないと決め手続きした。

なんか、肩の荷が下りた感じはなんなのだろうか。

長年、罰金やらメンテナンスやら更新手続きなどなど、いっぱい国に協力したものだ。

何より事故にあう確率が少なくなった。

自転車、地域バス、タクシーなどを大いに活用して生活をエンジョイしていこうと思う。


’17/3/12/sun

近所のマーケットに宮城県名取市から毎年半年ごとに「研師」が来る。

裁ち鋏が、布を切るときにマチ張りを噛んでしまいその部分が布を裁つ時に引っかかってしまい不自由だった。

去年は握りバサミの歯欠けと、別の裁ち鋏を砥いでもらった。研いだ鋏は絹布もスムーズに切れストレスが無い。

今度は8月ごろだといっている。


’17/1/6/Fri

きのうから福祉センターの無料風呂がはじまった。

福祉センターは4日からオープンしていて、お風呂は5日からでした。

ぼくは4日の日「歌い初め」に行ってカラオケ10曲ぐらい歌ってきた。誰もいないと思っていたら後から一人歌いに来た人がいた。

お風呂が無いとカラオケの人は少ないのじゃないか、と、同じ考えをしたんだなきっとね。






’16/12/30/SAT

2016年も何とか切り抜けて生きました。カミサンも今日で今年の「早朝アルバイト」が終了です。ごくろうさまです。

残すところ後一日です。ぼくも薬を飲まずに一年元気に持ちました。来年も正月早々展示会が控えていて、休みなしです。でも目的があるって楽しいです。

2017年かかってこいや!!


’16/11/11/FRI

トトちゃん、あちらに行って15年目の今日。あの時は快晴だったが今日は朝から雨だ。おうちにいるトトグッズに癒される最近です。


’16/10/20/THU

久しぶりに上京した。染色材料の老舗「藍熊」に材料を買いにいってその足で浅草界隈を散策してきた。

スカイツリーがすぐそばにそびえ立つその下に、世界の人たちに混じってぼくたちも歩いた。キモノを着ている人たちはほとんど外国人だ。

テレビで外国旅行者が増えてると言ってたが、本当だと実感した。

「藍熊」の人の話だと台東区は文化継続者を応援する仕組みTASKプロジェクト(地域資源活性化プロジェクト)があって、「モノづくりしている人に助成金を出しているといっていた。

工房かねた店舗式の民家で陶芸教室や靴制作風景が見えたり、100キロを超える重量感あふれる人力車を作っている現場とか、街を歩くのが楽しい。

「モノづくり」の観光資源の見せ方が古くて新しい形の平面モール街だと感じた。

TUKUBAは余剰金はあるらしいが、それはなるべく使わずにかかる負担を市民に託す政策を練っているとか、台東区みたいな区がうらやましい。


’16/6/10/WED

水戸へ行ってきました。全体にゆったりしたデパートでした。ゼロの日が無かったのは良かった、だが宿代で消えてく位の売り上げでした。

お客さんは食事時しかあがってこない9階フロアーで9店舗出店でした。

出ていたときに耳に入ってきたニュースで大阪の八尾の西武デパートと、つくば西武デパートは今年いっぱいで閉店といっていた。

それと水戸京成デパートも危ないとのうわさがみみにはいってきた。火の無いところに煙は出ない。

手作り人たちが今、路頭に迷うのか……


’16/7/24/SUN

28日から8月2日まで水戸の京成デパート、9階イベントスペースで何人かの共同参加の展示即売会の準備をしています。初めてなのでどうなりますかね。


’16/7/9/SAT

つくばカピオ手作り展おわりました。

久しぶりの〜ゼロでした。朝から小雨で重い手荷物をバスで運んだ、午後から荒れる天気予報でしたが、夕方から雨が上がって帰りは降られずに帰れた。

足の重い帰宅でした。みんな安い。

来年3月の予約済んでるが、小物でがんばるか。


’16/6/1/WED

机に向かって仕事をしてたらカミサンの叫び声がした。

何事かと声の場所へいくと、煙とゴムの焼けた悪臭がユーリティーいっぱいになっていた。

ハイアールアクワ株式会社の2012年製、日本製、の二層式洗濯機が、なんと火を噴いた。

小さい字の注意書きに、7年経過した製品は火を噴くことがある、と書いてあった。

実は去年の今頃に、やはり同じ洗濯機の脱水機がショートして焦げていた。それ以来脱水は出来ず、濡れ干しでやりすごしていた。

いつかは買い換えなきゃと思っていたがこんなに早くこの日が来るとは……

ハイアールと三洋電機が合併した後の製品だ。何が「日本製」なんだ。以前使用の洗濯機は驚くほど長持ちしてた。

「日本製」は外国人向けのロゴなんだね。

急遽、大型電気店に洗濯機買いに行った。悲しいかな貧乏人には高いものには手が出ない、したがって又懲りずに同じ会社の二層式洗濯機を買った。

最近の大企業のもの作りはこんなものなのね。そして値段に見合った期間しか使えないことも学んだ。

1万円は1年間は使える期間。

どうせ壊れる製品なら安い製品を頻繁に変えていくのもひとつの方法かな、と、自分に言い聞かせた。


’16/5/21/SAT

穏やかな天気が続いています。引越しのとき、つれてきたアジサイが水耕栽培で蕾が育っている。

そのほかブルーベリーや、ひよどりじょうごも、白水引、ふうせんかずら、しゅうかいどう、去年植えた宝釣草(ほうちゃくそう)などなど、うちの草木は元気だ。

そういえば、もう散ってしまったが螺旋に仕立てた白バラが今年は20輪咲いた。


’16/5/12/THU

今日、いつもは地域バスを利用するところを「つくタク」という地域福祉タクシーをはじめて利用した。

利用人数、時間を予約してからその時間に停留所で待つ。乗り合いタクシーの感がある。

二人で利用すると、バスよりも利便性において格段の差があることがわかった。今後大いに利用したい。


’16/5/10/TUE

5日の日にかねてから行ってみたいところがあってカミサンと自転車で行ってきた。

そこは近所に出来た新しい橋だ。新しい住宅地の中の切り通しを下りてゆくとお目当ての橋だ。

橋の中央で川面を見ると川鵜がたくさん飛んだり泳いだりしている。よくよく水の中を見ると亀が大きいの小さいのが浮き沈みしながら泳いでる。

へえ、こんな近くでこんな自然がまだあるんだ。

実は大型宅地造成中、山野が壊されて動物たちの行く末を案じていた。

が、筑波山を望むこの河川敷などがその受け皿になっているのかも、と思い安堵している。

帰り道、福祉センターで60歳からは無料のお風呂に入ってきた。贅沢贅沢。






2016/2/21

飯田の実店舗がとじました。自分たちにご苦労様。お客様にありがとう。で終わりました。


2016/1/20

新春からぼくたちは新たなスタートを切ることにした。

土浦の蔵の店を15年を契機に実店舗をたたむことにした。ただいま感謝セールをしている。

2月いっぱいをもって「蔵の店」駄々を終了します。今後は人のいるところへ出かけて販売発表していきます。頑張るぞ!!



もう冬?なの。涼しいから寒いの表現がぴったりな季節です。

駄々ちゃんちも、すっかり冬モードです。コタツ代わりに寝袋を出して足腰入れている。肩にジャンパー引っ掛けて編み物している。ニュースを見ながら貧乏嘆きながら。

世の中ハローインだといって渋谷の交差点がテレビで写っているのを見て外国の祭りになんであんなになるか不思議です。みんな一斉に同じ事をする時代なんですね。

ぼくは「みんなと一緒に」はダメですね。



2015/10/26

晩生栗を拾い食しました。たぶん今年最後の栗となるでしょう。お風呂に行く途中の栽培栗が道端に落ちている。

その畑の前のラーメン屋さんはオープンするといつも車が満車状態の人気店だ。ぼくたちはまだ食してません。だから味はわかりません。そのラーメン店ができる以前はだいぶ長い間居ぬきの飲み屋の空き店舗だった。

店の職種によっては繁盛の仕方が違うんだね。駄々とは真逆のお店だ。いいんだもーん。大きな栗おいしい。



2015/9/27

今日は満月です。十五夜。

さっきまん丸の月を二人で愛でました。




2015/9/12
とうとう、茨城も災害にやられてしまった。

現地にいけないぼくは妻と二人被災地をテレビで見てすごい事が起きたと思った。

人間はいつも自然に翻弄され続けて、それでも生きていかねばならない宿命なのか。人間よ頑張れ。


2015/9/3
何なのでしょうか、このお天気は。

経済も天気も日本の行く末も不安定、先が読めない。

立秋といってから一気に秋そのまんま。で、いいのだろうか。

道端に落ちていた栗食べました。おいしかった。デカカッタ。いつも山栗を拾って秋を楽しみましたが、最近このあたり一面、大型宅地開発とやらで原野が全部掃われしまい、秋の味覚も失われた。動植物も追いやられてしまった。

仕方ないが虚しい寂しい。


2015/7/3
最近ぼくは帯状疱疹が出ちゃってなんか人並みみたい。今日で約3週間目。

最初は左わき腹あたりが風邪で熱が出るときに皮膚がさわさわした感じで始まったので風邪と思ったが風邪のときのだるさはなかった。で、様子を見ているうちに1週間すぎますますサワサワが強くなってきたそして朝、鏡に映ったわき腹に湿疹が!!

すぐにかかりつけの医者に行って診察してもらった。

結果、ビンゴ!!!!「ハイ、帯状疱疹です!!。」今朝医者に行ってその後を診察してもらった。

少し痛みっぽいサワサワはまだ残っている。が、早期に治療したせいか大丈夫的な診察結果だった。


2015/5/7
わーいやった!!今年のぼくんちのバラなんと14輪咲きました。うれしい。   


2015/4/8
なんだ、なんだ驚いた。桜吹雪かと思ったら窓からの景色はボタン雪が降っている。朝8時。山桜満開つくばだ。


2015/4/2
いまこの地域は桜が満開です。田んぼはまだ水は張っていませんがトラクター方を耕して準備しています。

大好きな「芽吹きの季節」は生きているものすべて躍動し始めました。67回めの春です。

ギターでジャンジャカは今もやっている。ぼくのカラオケは点数はあんまり高くない。平均70からせいぜい85点前後だ。でもぼくは点数より心を込めた歌い方を目指している。

声を出すことは自分自身に癒し効果あるのかも。


2015/2/21
はやっ!!もう2月半ばだ月日は早く飛んでゆく後ろにどんどん••••


2015/01/20
きのうは、というより、このところよい天気が続いている。

筑波山も青空に映えている。約7キロにある市役所に、期日過ぎた未払い金を支払いに。つくば颪(おろし)が吹いてたけれど老人は風の子なんて言いながらカミサンとコキコキチャリンコこいで行った。

支払いすんでついでに「いばらきシニアカード」なるものに登録した。市役所広場で野菜直販をやっていてレンコンとトマトを買った。

帰りに隣接するショッピングモールでウィンドショピングして田舎都会の雰囲気を楽しんだ。

開発途上の広大な住宅予定地を抜けて帰った。約1時間のレクレーションでした。


2015/01/06
今年が始まった。世の中不安定な要素がいっぱいだけど、ぼくは今年も生かした暮らしをめざし。二人でチャリンコこいで行く。 <









2014/10/28
展示会の準備で忙しかった。

時間貸しの車で朝9時からあっちこっち回りながら作品たちを運搬し12時までに車を返さないといけない。

そんなこんなで続けて飾り付ける作業。慣れてるけどやっぱり疲れる。ふたりともちょっとバテタ。

でもある程度飾ってあとは明日やろう。といって今日は終えた。

冬一番の風が吹いてて自転車は寒かった。


2014/8/26
やっと夏が終わりそう?

朝起きるにも夜寝るにも大変楽になった。ついつい起床が遅くなりがちになってきた。

あちこちで災害が起きて困っている人がたくさんいて…。

鳥や動物たちは災害にあって死ぬことは人間に比べてどうなんだろうか。

五感を働かせて生き延びる術は人間に劣るとされているものたちのほうが優れてるんじゃないのか。

人間はもはや「情報待ち人」になってしまったのか。

「生きる」に関しては動植物の生き方が賢明だとおもう。研ぎ澄まされたその生き様はすばらしい!!。

茨城は今年も大きな災害が起きてませんがいいのでしょうか。


2014/8/4
いま「蔵布と展」と称して蔵で「夏の染織展」をやっている。

毎日酷暑が続いているが二人とも自転車で蔵店までかよっている。よくやるよと思っている。

途中の道すがらは禅の修行者の気持ちとなんら変わらない。ひたすら何も考えずペダルをこぐ。暑いけど稲穂を付け始めた田んぼの風を受けると結構、風を切るので涼しい。長袖のシャツがまた涼しい。

12日まで開催しているが蔵の中で機織をしている。蔵の中は涼しいです。蔵の水道は井戸水なのでとても冷たい、それに近所の直販トマトを浸して食べる。

幸いなのか、生憎なのか。雨が降れば荒天ならば休めるのに、この辺ちっとも降らない。大雨被害の皆さんごめんなさい。


2014/7/3
なんか快晴だとはいえない天気でしたが無事一週間の西武つくば店「手作りクラフト展」が終わった。

それなりにいろいろあったけど、まだまだお勉強しないといけませんでした。


2014/6/25
27日から西武つくば店で「手作りクラフト展」が開催される。

駄々も出展で、ここ両日、蔵へ出て準備にかかっているが何せ天気が悪くて晴れ間を縫っての出勤だがとうとう荷物を送り出す今日に限って、朝からドシャ降りの中カミサンと一緒にうちを出た。

どうしても荷物を送り出さなければならないので仕方がない。100円ショップで買ったレインコートはその日で破けてオシャカになった。でも濡れは最小限に収まった。

無事配送すんだ。

帰りの天気も筑波山のところは真っ黒な雨雲があって降られるのを覚悟で帰った。運よくほとんどぬれず帰ることが出来天の神様にまず感謝 !。だ。


2014/5/27
マイカラオケブームは続いているがさらに発展して18歳ころからの我流趣味のギター。と言ってもクラシックが出発だった。カラオケで歌う曲をジャンジャか演奏でコードをいま起こしている。

カミサンは何があったか急に染色をしている。教授が生きてる間に染を覚えたいのか。兼ねてから言っていたことを、いま自分からやろうと決心したみたいだ。

僕は基本だけ教え口出しをしないでいることにした。結構センスはいいんじゃないかな。

本人も心なしか楽しそうだ。


2014/4/23
我が家ではいまマイブームはカラオケです。

最近手術したメディカルでお墨付きをもらって体調も快調。カミサンも普通に歩けるようになったし、そんなこんなでふところさびしいが、体力と心に余裕が出来たのかカミサンと出逢ったころよく歌ってたカラオケをまた挑戦しようと意欲がわいてきた。

歌うのにあたって古い曲しか知らなくて困っていたらヒョンナことで動画サイトで歌も覚えることが出来るのを知ってチャレンジしている。

只今持ち歌訳30曲前後。おもにちょっとモダンな歌謡曲と言う感じの歌がすきだ。老人福祉センターのお風呂を利用するときに1曲50円で歌っている。

目標はその場にいる人たちから「よかったよ!」と言葉をかけられたらいいかなと思っている。


2014/2/27
今日であの日からちょうど一年経ちました。あのまま逝っていたら永眠、今生きてるから睡眠。そんな感じで生活してる。

結構この一年楽しみました。これからも、その日まで。


2014/2/25
ギブス松葉杖からカミサンが開放されました。メデタシ。これから転ばぬようにリハビリしなければならない。


2014/1/20
カミサン怪我1週間経過。明日院へ行ってレントゲンを撮るらしい。ギブス姿も痛ましく、すぐ動けないのがもどかしい。

テレビで出ていたある社長が母校の人たちに良いことを言っていた。

「止めない限り、負けはない。」事を始めたら途中で投げないで続けていればそれを克服できる。と言っていた。

「継続は力なり。」というのもあったっけ。


2014/1/11
あああああ!!今朝まで一緒に買い物してたのにその帰り道歩道のちょっとした段差で自転車を引いていたカミサンがこけた。

僕はいつもの捻挫程度に思っていたが、カミサンいわく「今までにない痛みが走った。」と言った。

早速インタネットで病院を探した。幸いにして自宅から10分くらいのところに整骨院があった。自転車で行って、捻挫だと思っていたら結果「くるぶしの骨折」でした。

カミサン帰りも自転車に乗って帰ってきました。僕は松葉杖を掲げて帰ってきました。リハビリまで3,4週間の怪我でした。

災難は日々の生活に見えないけどぴったり寄り添っていることを改めて思い知った。


2013/12/29
いよいよ押し迫ってきた暮れ師走。蔵店に出てカミサンは店のレイアウトを変えている。

ぼくは整経のときに綾棒をうっかり抜いてしまった9m織りがもうすぐ終わる。

しんどかった。でもうれしい。コレでよい年が迎えられるかも。


2013/12/16
只今蔵の店で「ヤスヒロの手編み展」と題して今年の謝恩セールをしています。

4日目、寒い中今のところ天気には恵まれているが、蔵に行くときは下り坂だから楽なんだけど帰りは長い上り坂で息切れしている。家にたどり着くと汗で下着がびっしょりになる。風邪を引かないように早く着替えている。

買って出たことだけどこの年になって、よくやるよなー二人とも。と思ってる。


2013/11/25
だいぶ寒くなってきた今日この頃蔵まで片道6キロ、自転車で通うのに二人で重装備で出かけています。蔵に着くころは汗が出るくらい、からだ温まってきます。

日中の日のあるうちに帰えれるよう蔵での仕事すませます。自動車が無ければ仕方が無い。それに沿った生き方をするものだなと最近思う。

レンコンが蔵近くの野菜直販「クルトロード」に出始めた。安くておいしい。


2013/9/28
カミサンが朝の食事あとの珈琲を入れてくれた。食器洗いの始末のとき「あなたって、いつだってちょっとだけ残すのねえ。」と言った。

つづけて「財産を残すならいいけど…」僕はすかさず「思い出を残してあげるからいいじゃないか。」とい言った。「思い出じゃご飯食べられないのよ。」だって。うん言い得てる。

筑波はぺデストリアンデッキというのがあって歩行者と自転車の専用道路が市の中央を縦横に張りめぐされている。それを利用し始めて、自転車で市の中心まで25分位かかるが大学の敷地内を走るその道は便利だ。

車は手放したが展示会の荷物運びはレンタカーを借りることにした。

最近ネットで調べたら「時間貸し」するレンターがあって市内のあっちこっちに拠点がって、そこまで車を出前をしてくれる。望めば住まいまで配備してくれる、そんな会社を見つけた。只今僕の体重は64.5kg妻久江は59.5kgで二人とも、すこぶる元気です。


2013/8/13
猛暑真っ最中に駄々は蔵まで自転車通いです。

13年の車利用を止めて公共交通と自転車と自力歩行で後半人生をやれるところまでやっていこうと決めた二人です。

意外と自転車は夏向きだとわかりました。乗っているときは風を切っているので涼しく、何より医者に適度の運動を薦められているので……いいかな。それと2年に一度の車検やガソリン価格の動向やメンテナンス、駐車場代にお金がかかるクルマ。生活全体を見直しシンプルライフを目指しています。

あと地域バスが近くを走っているのでちょっと遠出に利用しようと決めている。半額パス登録も済んでいます。結構年重ねるって楽しいものかも。


2013/7/7
かかりつけの主治医に「だいぶ落ち着いてきた、このままで行きましょう。」とお墨付きをもらった。体のコンデションもすっかり良くなった。

72キロあった体重もいまは66キロだいぶ体が軽くなった。

カミサンいわく「すっかりやせてスマートになった。」と言ってるカミサンも一緒に痩せて、68キロぐらいあった体重がただいま62キロ。塩分を控え、食事の量も減らし、適度の散歩で無理なく痩せることが実証された。

出ていたおなかもわき腹もそげて、事情を知らない人は聴くのもはばかれるらしく「だいじょううぶですか」とたずねられた。

病気前に比べ薬(くすり)に守られてる安心感がある生活になっている。


2013/5/11
このバラ、仕立て直してから4年くらい花は咲かなかった。

けど今年再起を祝うようにやっと咲いてくれた。それも一度に4輪も、とてもうれしい。


2013/3/12
3月8日に退院してきました。

いろんな人に助けられて命拾いをしました。それはこうして始まった。

2月27日お昼ちょっと前少し空腹感を感じながら、いつもいってる老人福祉センターのお風呂に入っていてしばらくして、なにか左胸奥に違和感をおぼえ早めに風呂を切り上げた。風呂を出て着替えているうちだんだん痛みが増してきた。

胸の裏表から圧迫されるような痛み。寒気とともに汗が出て下着がびっしょりになった。

カミサンが風呂から出てきてぼくの様子にびっくりして「救急車呼ぼうか?」に反応して「うん」と答え施設の職員さんやらカミサンの声が乱れ飛んでいた。

まもなく救急車到着。タンカーに載せられスロープを下った。玄関を出ると空が回転して救急車に乗車した。

救急隊員はたえずぼくに声かけ、痛みは移動していないかをたずねていた。ぼくはそれを「うーんうーん」言いいながら答え、もうすぐ病院に着くから頑張って。と言ってる隊員が絶えず時計を見ていた。

まもなく病院に到着あわただしく医師、看護婦たちの声が聞こえ病院の移動ベッドが走った。救急手術室にて担当医師、外科医師ほか看護婦たちがせわしく動いていざ手術。の前に承諾問診みたいなことを聞いてきた。

しかし前から「病気になったらそれでおわり。」とカミサンと話し合っていた。 担当医者には手術代が払えないことを伝え手術をためらっていたら「奥様に聞いてきます。」

まもなくカミサンが術室に入ってきて「ヤッチャン二人で何とかしよう。だから手術しよう。」と横たわっているぼくの耳元で言った。ぼくはうなずいた。

術室は急にあわただしくなりぼくはすっぽんぽんで毛をそられているのを感じた。カテーテル手術で冠動脈にステントというネットを入れて動脈を広げふさがった血管をよみがえりさせる手術だった。

なんて人は弱く意気地なしか思い知った。

退院してからカミサンを巻き添えに食事カウンセリングの実行や散歩運動の仕方、毎日の血圧記録をしている。そしてぼくは、一生飲み続ける薬も。

カミサンいわく「死ぬも地獄、生きるも地獄」ため息を吐いた。「ぼくはイチゴが好き。」カミサン「私はイチジクが好き。」と言って二人笑った。

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…染色への道…

VOL.1

染色の道に入ることになった、そもそものきっかけは1963年にはじまる。

中学3年生の卒業前。その頃、「金の卵」といわれもてはやされた団塊の世代。

東京に出ていた姉が後に師匠となる先生と知り合いだったせいもあり、あるとき「誰かうちにきてくれる卒業生を知らんかね。」

と言われ、すかさず「いるいる!」というのがきっかけだったと聞いた。

その頃は進学する人がほとんどだったが、家庭の事情があって、ぼくは進学をあきらめた。

就職はぼくの知らないところで卒業する半年前から決まっていた。

早く東京へ行きたかった。

担任の先生の自宅(住職)に直談判に行った。ぼくは一人で行くつもりだったが学友が二人付き添いで付いてきた。

先生は、ぼくの言葉をひと通り聞いて決心の固さを知ってか、卒業前に東京に行くことの了解を得た。

卒業式には出席することを約束をして•••。

あの頃はそんなことが出来たんだね。おおらかな時代だった。

VOL.2

染色家の先生に最初の接見は、姉と一緒に卒業前の夏休みを利用して旧国鉄•高田馬場駅だった。

今思うとあのころの先生は50代か、ずんぐりした骨太の印象で精悍な感じだった。

駅の前はトタンが赤く錆びたバラックがひしめき合っていた。東口で逢った。暑かった。

それからタクシーに乗り、東に向かって牛込矢來町へ着いた。牛込消防署のすぐ側の工房だった。

何を話したかは覚えてないが、とにかく遊びのつもりで居なさいみたいな感じだった。そして二階の仕事場へ案内された。

仕事場の皆さんはこのことは承知していたらしく挨拶してくれた。

見たことがない光景、道具類に驚いた。

まず目にしたものは伸子(しんし)と言うもので反物を張っているさまは、まるで空に浮かぶ凧の如し。

みんな真中に穴のあいた四角い机の前で、火鉢を抱えて刷毛(はけ)で色を塗るもの、溶かした蝋を筆につけ滑るような筆裁きで描くもの。そのときの人数は先生を含め四人だった。

卒業まで職場の環境慣らしのつもりのスタートだった。

大人たちの中での生活は緊張した。

最初の失敗は入ってニ、三日後に計画された職場の慰安旅行に一緒に行くと言う前日、不覚にもふとんに漏らしてしまい、そのことを言えなくて恥ずかしくてその日の朝、職場を抜け出してしまった。

VOL.3

あとで聞いたことだが、次の日職場ではいなくなったぼくをみんなで探したそうです。

ぼくは最初来た道を思い出し、西(高田馬場)へひたすら歩いた。

駅が「飯田橋」にもあるのを後で知った。こちらのほうが近かったのに•••ひたすら歩いた。真夏だったので暑かった。

そんなことも知らずぼくは、姉のところへ行っていた。のんきだった。

結局、旅行が終わってから職場に戻った。”職人の世界”への始まりです。

そして一週間後、自転車で外回りの途中でまたまた失敗。

公園の上のほうから坂になっていて下のほうが見通しのよくない小さな交差点で、無謀にもブレーキもかけずにその交差点を突っ切った。

次の瞬間、左側に黒いものを感じた。

VOL.4

「大丈夫か。」の声で気が付いた。「大丈夫です。」と言ったまでは記憶しているが、その後は目の前が真っ暗になり何も記憶がない。薄れた気力で我に帰ったときは見覚えのある病院のフロントの風景だった。

そこは数日前、夢で見た光景だった。天井が高くて薄暗いがフォールの真中に暗いグリーン色のレザーのような大きな円形状の椅子があった。

中央の背もたれが高くなってた。突き当たりがエレベーターだった。そして、何人かのおじさんたちに混じって治療した。

病気じゃなかったのでご飯がやわらかいのに看護婦さんにクレームをつけた。

おじさんたちは15歳のぼくを、”おとのなのハナシ”でからかった。卒業式まで入院してしまった。

病室で誰かのラジオから「シェリー」や「悲しき雨音」、「ロコモーション」の曲がよく流れていた。

元気になって現場を見にいったとき、なんと落ちた所に衝突防止の大きな石があった。黒い乗用車のフロントにぶつかり向こう側へ飛んだらしい。

運が良い事に相手方は”電飾関係の社長の車”だった。

見舞いにきてくれた社長に「悪いのは君だよね。」といわれ「うん。」と認めたことでその社長はすべての治療費を負担してくれた。

そして少し太って退院。

VOL.5

姉に言われた。「”石の上にも三年”なにがあっても我慢しなさい。」と。

でも最初の三日、一週間、一ヶ月と「やめたい」が襲ってくる。そのたびにぼくは姉に愚痴をこぼし「そう大変ね、そんなに言うなら仕方ないけど、でも、もう一日やってみたら。」と姉に言い含められ、のこのこと職場に戻ることを何度も繰り返した。

最初の仕事の内容は、自転車に乗って仕立て屋さん、紋屋さん、引き染ぞめ屋さん、湯のし屋さん、蒸し屋さん、ドライ屋さんなどに反物を運ぶ”外回り”だった。3年たつ頃、原付免許を取れる年になった。この頃の原付(50cc)はクラッチ付だった。慣れるまで大変だった。

ある日、雨が上がりかけた若松町から神楽坂、飯田橋へとつづくカーブのところで路面電車のレールにオートバイのタイヤを取られ転倒。オートバイは投げ出されたぼくを路面に置いて、まっすぐに前方向へつっ走って行った。

あわや店に飛び込むその寸前にオートバイが倒れた。

レールの上に転がったままそれを、ただ見ているぼくだった。

こんなこともあった。早稲田のなんたらいう神社下で、それは祭りの後だったと思うがアスファルトの道にうっすら砂が一面にあった少し下り坂のカーブのところでハンドル操作を誤り転倒。ズボンが裂け、足は擦り傷だらけになり砂混じりの血だらけだった。夏だったので太陽で傷口がヒリヒリ痛かった。

しかし、思えばよく転んだ。

その頃の初任給は住み込み、食事付で8.000円だった。先輩に言わせると3.000円ほどぼくのほうが高いといっていた。

VOL.6

着物制作の最初の一歩は、花や植物のスケッチをすることだった。

毎日、バラや牡丹、あやめ、つつじなど草花スケッチに明け暮れていた。下絵(したえ)の図案を描くための”線”描きの練習。

これは師匠の書いた図案を硯に墨をすり、半紙に細い毛筆でなるべく細くなぞり写し取る作業で、長い期間の課題になった。

線が描けるようになると先生が描いた下絵を藍花という液体で、白生地の着物や帯に写し取るのがぼくの仕事でした。

それと平行して染色工程の最終処置の”箔仕上げ”や、臈纈染めした生地の蝋を新聞紙で取るアイロンがけや、外回りなどを三年余りした。

その頃の仕事全般は花柳界の華やかでモダンな”引き着”や”留袖””振袖”が多かった。

仕事のテンポは、お昼が済むと庭に卓球台を出しみんなで遊びに夢中になった。昭和37年〜38年ごろだった。

VOL.7

染色家の卵が仕事にも慣れ飽きて、三年たったころまた「やめたい」症候群がやってきた。

ある日、師匠に談判した「もうやめます。今度はほんとに、やめます。」と、先生は涼しい顔で「いいよ。」

「ああよかった、これでこことさよならできる。」と思い胸をなでおろした。

「いつやめてもいいから、もう一日だけいてみたら。」と続いた。

「えっ、いつでもいいんだ。」そう考えたら「もう一日いてみるか。」なんて単純なあの頃だった。

そしてある日やっと”蝋筆”を持てることになった。

記念すべき、ぼくの”臈纈染”が始まった。18歳ごろのこと。

VOL.8

仕事をしながらラジオをよく聴いていた。主に洋楽ポピュラーソングを聞いた。

先輩はプレスリーが好きでぼくはビートルズを聴いていた。先輩はビートルズの曲をかけると「うるさい曲だ、こんなの歌じゃない。」といって先輩のラジオとぼくのラジオが職場でよくもめていた。

もめるといえばよく先輩達に逆らって喧嘩もした。

わがままを通しているのか意見を言っているのか解からないうちに喧嘩になった。

三人いた先輩とそれぞれと喧嘩した。

あるときは炭火のことで、これはその頃、朝一番に炭火をおこして、みんなの火鉢にそれぞれ入れて準備することがぼくのが仕事。ぼくの火鉢に火がなかったとき、先輩は「この炭火をつかいな。」と親切に言ってくれた。

それをぼくは拒否し「自分で起こします。」と言って譲らなかったもので先輩は怒ってしまい喧嘩になったこともあった。

また、あるときはなんだか理由は覚えていないが外へ逃げ出し先輩に追いかけられ「殴らないから止まれ。」「ほんとに殴らない。」のやり取りを何度も繰り返しやっと、走るのをやめた。なんてことがあったっけ。

まだまだいろいろあるけれど思い出したら又書くつもりだ。

先輩たちもこんな後輩で手を焼いたと思う。

後に聞いた話に先生が先輩たちに「あいつ(ぼく)にはかまうな。」と通達が出たそうですが、その中の一人はその後も何かと、かまってくれた。

VOL.9

ぼくは17才〜18才ころから口ひげを生やしはじめた。いまでも生やしている。師匠に「おまえは何で、ひげを生やしているんだ。」と問われ「何でって、ファションかな。」って答えたことがある。質問の意味がわからなっかった。

正直なところ自分の中でも理由など無かった。少なくても威張りたいから生やしているとは思っていなかった。

その頃はまだ若者たちの中でも”ひげ”は珍しかった。

ぼくの仕事机は師匠と真正面に向かい合う位置にあった。よく仕事中に”先生”と目が合ってしまい、にらみ合うような状態があった。

特にぼくが仕事がうまくいっていないときは”先生”を睨らんでた。先生はきょとんとして「何んだ。」と言う顔をしてたっけ。

そろそろぼくが4年ぐらい経った頃、ぼくの後輩たちが入ってくるようになった。

あの頃は新聞の求人広告欄によく染色家の募集が載っていた。染色業界が華々しい頃だった。

”東京オリンピック”前後の頃だった。

VOL.10

毎日、月末近くになると締め切りがあり深夜まで仕事をさせられた。

ぼくはそんなに根気をつめてやっても、仕事の発注先ではありがたいなど感謝することは無い。と思い余り乗り気ではなかった。

しかし、先輩の仕事の進め方には反抗は許されなかった。

職場の人数も増え仕事はどんどん忙しくなる一方だった。染色界全体がそんな状態だった。

その頃から給料も上がっていった。

VOL.11

ぼくが一番上の”先輩”の立場になった21才の頃、後輩が5〜6人ぐらい居た、女性も何人かいた。職場が賑やかになっていた。

30年あとで聞いた話だとその頃のぼくは仕事をしてる間は『ラジオをイヤホンで聞いて黙々と”自分の世界”に入っていて話し掛けても返事しないし頼りにならないと思ってた。』といっていた。その頃も忙しく、徹夜することもあった。後輩たちには定時にしまってもらい、ぼく1人でやることが多かった。

自分の経験したときを考えるとそれがベストと考えた。良いか悪いか解からないけど•••。

23歳ころ父親が亡くなった。(母は小学三年生のときに病死している。)

VOL.12

いよいよ独立まであと数年。

一番ショックだった思い出がある。それはくだらないといえばくだらないことだった。

「自分専用の鋏(はさみ)が欲しいが、買ってもいいか。」と、ある後輩が言った。

ぼくは「いまある鋏をみんなで使いまわせばいい。」と答えた事で口論になり彼は頑としてぼくの意見を拒否した。

ぼくは余計な出費をしないようと主張した。先生に「おまえが悪い。」の一言で片付けられた。

彼は大学卒業して3〜4年経ってから入ってきたから28才〜29才だった。ぼくは22才〜23才ごろだった。

そしてその夜に彼がぼくを階下へ呼び出しいきなり顔にパンチを食らわせた。

その階下は台所だったので発作的に側にあった包丁を握っていた。他の後輩のひとりが騒ぎを聞きつけぼくを”羽交い絞め”にして止めた。

そのとき急に「こんな奴殺しても損するだけだ。今おれが殺らなくてもめぐり巡って、しっぺ返しが必ずある!」嘘みたいだがそう思った。

踏みとどまってよかったと思う。

鼻の骨傷が、いまでも触ると出っ張っている。悔しかった。

あと数年すれば独立できると思いそのとき”やめる”のを我慢した。

そして、お礼棒行一年。通算11年いて独立。

VOL.13

独立だ!!!

胸膨らませ、いよいよ引越しの段階で先生が「何か必要なものを言いなさい。」と言われたけど丁寧にお断りをした。

でも本当はお金がなくて引越し(たいした物は無かったけど)の運送代にも事欠いていた。

貯金箱を壊して運送料金に当てた。落ちついた頃先生がアパートに来て「染料代を出すから染料買いなさい。」と言ってくれた。

素直に好意に甘えた。うれしかった。

この時代から更なる運命が待ち受けていた。その頃はまだ気づいていなかった••••。

まだまだつづく、苦難の道•••
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…記憶の断片…


ぼくと兄は4つ違い。ぼくが4~5歳のころ庭に植えてあった栗の実を取り合って兄貴と喧嘩した。父親はそれをみて二人の目の前で木を切ってしまった。

喧嘩の元を切ってしまえば喧嘩はしないと思ったのか

でも栗の木がなくなっても喧嘩の種は尽きなかった。兄貴が中学を卒業して上京した後は庭の無花果、柿、スモモ、さくらんぼ、桃、ナツメ全部ぼくのものになった。

ぼくの父親は自転車や、オートバイなどを組み立てて乗り回したりしてた。

小学校低学年の頃、姉がセーラー服でオートバイのタンクをまたいで颯爽と走ってるのを見た。

ぼくも一度だけ乗ったことがあるが、ハンドルふらふらして怖かった。

アイスボンボンのゴム袋に空気を膨らまして、自転車のタイヤのフォークにあてて、まるでオートバイに乗ってるみたいにバリバリ音を立てる遊びをやっていた。

そうそうこんな遊びもした。

自転車のゴムタイヤや、フォークをはずして、リムの溝に棒をはめ込み、それを駈けながら転がして競争する遊びだ。

東京に就職が決まって中学生卒業近くのある日、父と畑を耕しているときに「用事頼まれだりしたら、返事は「うん」じゃなくて"ハイ"と言わなきゃ、いげねがんな、わがったなヤス!。」と言われた。そして、ぼくは「うん」と答えた。

父はそれきり黙ってしまった。その頃、僕は返事は「うん」としか答えなかったことを指摘したのだと思う。本当はそのときの返事も「ハイ」を期待してたのかもしれない。

小学4年から6年生は男の細谷先生という人だった。

いつも昼食の時間になると貧乏だったぼくは外へ出てしまい空腹を我慢した。でもその先生はコッペパンを買うお金をよくくれた。

それで救われたことは多々ある。

その頃はその先生に、すまないという気持ちがあったのを覚えている。

母親が亡くなった小学三年ごろ、田崎先生という綺麗でやさしい女性が担任になった。

何かと孤独感を味わっていたその頃は学校に行くのが楽しかった。

ぼくとその頃仲のよかった?学友とその先生の気を引こうと(今思うと)張り合ってたような気がする。

今でも田崎先生を思い出す。

小学1年、2年生は女姓の蜂谷先生が担当だった。

その先生は、ぼくともう一人で朝の掃除のとき廊下の拭く掃除が終わって汚れた水を捨てるにあたって、友だちは窓から捨てろ、ぼくは水場で捨てるの意見でぼくが折れ窓から捨てた。丁度そのとき先生がそれを見て思い切りビンタを食らった。言い訳しても解かってもらえなっかた。

要領の悪い、場の悪いのはこの頃からか。

ぼくは小さい頃一人で遊ぶのが好きで木片で小さな舟を作っては小川で浮かべては遊んだ。

水面に走るアメンボや、ゲンゴロウを見たり、めだかの群れを見ていると1日があっという間に過ぎるのを覚えている。

ときにアサガオやオシロイバナを搾って色水遊びにふけったことも有る。

今でも群れて遊ぶのは苦手だ。

ぼくの父親は一人っ子だった。結構器用で、頭はよかった。

若いときに何かあったらしいけど、ぼくを生んだ母親とは2度目の結婚と聞いた。それが元かどうだか知らんが勘当になった。

おじいちゃんは1度目の結婚のときの孫娘を後継者にした。住まいだけはあてがわれたが田畑は無かった。

父親と一緒に小学2~3年生あたりから田んぼを作ることや畑を作ることをよく手伝った。

田んぼに引く用水路の幅の三分の一くらい泥土上げして田んぼに、畑はその用水路に平行している農道の端をけずり1メートル未満の細長い田畑が出来た。

子供ながらに他の人がやらないことに疑問視して質問した。「こんなことして大丈夫なの?」「大丈夫。用水路は底上げして水がよく通るし、あぜ道も草を刈ってやってるようなもの」と。

そのほか川の湿地帯の土を上げて田んぼにした。これは根気と努力がいる仕事(?)だった。掘った跡は掘りみたいになっていた。

田植えをしても水かさが増すとザリガニにせっかく植えた苗を噛み切られてしまい又植えるというのを繰り返した。しかし秋の収穫時季は子供心に充実感があった。

よく学校を早退しては一人で開墾をしてた。学校の先生が橋を自転車で渡っていくのが見えると、マコモの陰に隠れた。

学校に居るときよりは自由で愉しかった。田植えは中学卒業頃までしてた。

幼いときからよく怪我をした。記憶の一番古い順に3~4才ごろ幼稚園経営の寺の住職のところで土かまど作るのを近所の子供と一緒に手伝いした。レンガを抱え運んでるとき階段につまずき顎を切った。

近所の畑のサツマイモを掘って洗わず着ているもので拭いてそのまま生噛りをして”赤痢”一歩手前で寝込んだ。あの頃は畑に人糞を肥やしとして利用していた。

父親の運転するオートバイ(父親が組み立てた)前の席に乗り車輪に足を突っ込んでしまった。今でも痕は残っている。

姉に逆らって鉄ヤカンを投げられ眉間に当たり傷残る。

兄にも逆らって真鍮の火箸を投げられ足の膝皿横に刺さりその痕も残る。多分小さいくせに口が達者で口より先に手が出てしまったのかな。だいぶ後で聞いた話では、母親が庭に「ムシロ」をしいてぼくを置いておくと、いつまでもその中で遊んでいたそうです。

しかし、一旦「ムシロ」から手でも足でも出ようものなら庭中を転げまわって暴れたらしい。

5~6才ごろのこと。

ある昼食事に父親と母親の目の前で玄関先に置いてある脱穀機に興味持ち、ガーコンガーコン踏み木を踏んでいたら、ふっと横の鉄歯車がキラキラ油で光ってその美しさに吸い寄せられるように右人指しゆびをさしいれた。

あとは父親が頭を、母は足を持ち、第二間接にかろうじてぶら下がっている指を持って坂の上のおじいちゃんのところ(歯医者さん)へ駆け込んだ。記憶に残っているのはそのときの痛さより、手より大きく巻かれた白い包帯だった。

これも5~6才ごろのこと。

ある夏の夕食時に丸い食卓を囲んでいた。父親が火鉢にかかっている”ヤカン”に「ふざけて食べているとひっくり返すぞ!!」といわれたそのすぐあと、煮えたぎるヤカンを倒し太ももに大ヤケド。

父親はそれ見たことかとし、母親真っ青に。「馬の油」を持ってそうな近所の農家を巡り歩き、やっとゆずって貰いそれをつけて、つわぶきの葉でヤケドのところを覆い、蚊帳の中で”うちわ”でずっと煽いでいてくれた母をいま思い出しました。現在はほとんどヤケド痕は見えない。

ぼくのうちは貧乏でした。帝王学を習わなかったので今でも貧乏ですと言い訳してます。

小学生2年生後半母が亡くなった。

小学生2、4年生のころ父親が継母となる人をぼくと兄に紹介した。兄は中学卒業まじかなので、どうでもよかったみたいだが「ヤスはどう思う」の質問に「おれは絶対ヤダ!!とうちゃんがどうしてもって言うんなら」徹底抗戦した。でも心の中で父親の生活を重んじた。結果継母がやってきた。

「自分のことは自分でする」ように継母に言われてきた。

ぼくの家には井戸がなかった。隣家からもらい水をしていたので洗濯に、炊事に、水がめに、風呂にとバケツで毎日何度も往復した。中学生ぐらいまで続いたように思う。

そのほか山は持っていなかったが薪や松葉などをしょいかごにしょって集めて燃料にしていた。

おかげで、かどうかわからないが中学一年生頃”善行優良児”というものに推薦され、わけも解からずどこかの施設で表彰されに行った事がある。卒業アルバムに載ってるだけだ。いまではその賞状もない。

幼稚園のころ「梅組」の運動会で親子リレーで父親とレースに参加。走った記憶はないけどなにか賞品をもらったことがある。

父親がぼくの手を引き上げてぼくは空中で走ってた。

あれは5~6才だったと思う頃の話。

母親が西新井の豆腐屋につとめてたころ駅の改札口を出たところで「ここで待ってなさいよ」と言われて一人で待っていた。

ところがなかなか帰ってこないので母親が消えた方角へ行ってみた。

「タースケターマーイテンジンサーマノ」なる念仏がどこからか聞こえていた。

それと母親との関連があるのかないのかわからない。

いま見えるのは駅の近くの橋、駅前の噴水?あったかなあ。豆腐屋の狭い階段、青と白の格子柄の上っ張り、おからの味。





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アトリエ駄々

「toto物語」

トトコとの出会いは1991年12月20日練馬桜台に「駄々」の店をオープン、そして3年たったころの師走のある夜だった。

トトの部屋

大壷の上のトト

ここが好き

「toto物語」

もうすぐ関係ないけどクリスマス。トトちゃん命日2001年11月11日でした。

北のほうでは雪便りが聞かれます。

突然ですがトトコとの出会いは1991年12月20日練馬桜台に駄々の店をオープン、そして3年たったころの師走のある夜だった。

カミサンと銭湯帰りに、店の前近くに来たら胸が白いキジトラが道を横切った。

ふたりで「かわいい」と言い「ちょっとおいで」と玄関まで誘いカミサン急いで鰹節を取りに玄関をあけた。

おかかを食べてるその姿に、店に引っ越す前の練馬高松の猫「たこ」ちゃんを思い出していた。

「toto物語」

「たこ」ちゃんは生粋の野良猫でなかなか警戒心の強い完全キジトラだった。アパートの玄関入り口にえさを置いても警戒して食べない。

ちょっと離れた位置にえさを置いて様子を見たらえさが無くなっていた。毎日少しずつ玄関のほうへえさを置き馴らして行った。

鳴き声は一切発しない猫でした。

この猫はいったいどこから来るのか興味を持ち、あるときベランダから、えさを食べずにくわえて行くその姿を追った。ジャガイモ畑の畝の向こうの方の家のフェンスの下にチラッと動くものが見えた。

それは小さい子猫が動く様子でした。ジャガイモ畑の畝の途中で必ずコースを変えて行く場所があり、その姿がおかしかったです。「たこ」は徐々に慣らしていったせいか玄関先まで来てえさを食べるようになった。

そうしたある日「たこ」は子猫を二匹つれてベランダへきた。牛乳をあげた。一生懸命に飲んだ。例のジャガイモ畑を親子で畝を変えながら帰っていく様子がほほえましい姿でした。

子猫は家の中に入り、そのまま家に居ついていった。「たこ」は外へ帰ってった。が毎日来ていた。

名前を「はな」と「くろ」とつけた。「はな」ちゃんはグレイトラ。「くろ」は真っ黒。

そして「はな」ちゃんは玄関先で食事をしていると何処からやって来たのか大きなヒマラヤンみたいな猫に後ろから忍び寄られ、いきなり噛み付かれた。「はな」ちゃんビックリそのままどこかへ逃げていったきりになった。

いまでもヒマラヤンみたいな猫を見ると敵愾心(てきがいしん)を抱く。

「くろ」ちゃんは前足にとげが刺さってグローブのように腫れあがったことがる。えさを食べてるすきに抱きかかえ洗濯袋に入れて2キロぐらいのところにある動物病院に連れて行った。道すがら「くろ」はワオワオ鳴いた。手術代しめて6180円。

「たこ」ちゃんは、カミサンがある日マーケットから帰ってくるなり「ここに置いたパン知らない?」買ってきたパンが消えた。アパートの周りの壁の下にぼろぼろになったパンが散らかっていた。ぼくらは「たこ」を責めないことにした。

「はな」と「くろ」は朝方おしっこしたいの合図を寝ているわれわれのおでこを軽くかんで知らせた。しつけをしていなかったが家の中ではそそうをしなかった。

まもなく大家さんに猫を飼わないように注意された。偲び難いが飼う事をあきらめた。

「猫には蚤がいる」のをいやというほど知らされた。あっちこっち刺された。カーペットにびっしり蚤がいた、取りきれないのでカーペットごと捨てた。

アパートから練馬駅の近所の店に引っ越すとき、「たこちゃん元気でね」と言って最後の雨戸を閉めようとしたとき、離れた場所でミルクを飲んでいた所から飛んできて見上げながら「ニャーオ!!」と鳴かない「たこ」は大きくないた。

ぼくは思わず涙が出て止まらなかった。

引っ越してからもたまにアパートの周りに「たこ」がどうしているか見に行った。いちどだけ出会ったが「たこ」はよその人を見るような態度だった。

でも元気そうだったので安心した記憶がある。

野良と仲良くなるコツは、決して脅かさない。大きな声を出さない。あせらない。かな

「toto物語」

練馬の店オープンにかかわる話。

そこはだいぶ長い間空き店舗になっていて、カミサンの務め先の途中にあった。元は美容院だったらしい。

全面ガラス窓の、そのたたずまいが気に入って僕たちはそこで店を開きたい「夢」を不動産屋に話して"だめもと"で大家さんに交渉してもらった。そしてOKが出た。

ベニヤ張りの壁はべこんべこんでそのままでは店舗としては無理なので思い切って石膏ボードに壁紙で張り替えることにした。

なるべくお金をかけないように出来ることは自分たちでやることにした。ベニヤ壁をはずしペンキ塗りや、照明器具などを調達した。

白い壁で貼りかえられた店は見違えるほど良くなった。そして開店。

白壁にセピア色の玄関、シンプルだけどとても良い店になりました。そして3年経ったころの師走のある夜だった。

カミサンと銭湯帰りに、店の前近くに来たら胸が白いキジトラが道を横切った。

ふたりで「かわいい」と言い「ちょっとおいで」と玄関まで誘いカミサン急いで鰹節を取りに玄関をあけた。

その後、何かにつけて餌付けをしていた。二年目あたりで大家さんと店の間のブロック塀の上に子猫を連れてきた。それぞれ名前をつけた。一匹は黒猫「クロ」、二匹目はグレイの白胸キジトラ「タカ」、三匹目は三毛「ジジ」。「ジジ」は店前の道路でひき逃げされて死亡。

事故を目撃した人の話、その亡骸をトトコは必死で路地へ引いていたそうです。かわいがってた誰かが埋葬した。一家はそのころまだ地域猫だった。

1995年1月17日阪神大震災が起きた。我々はニュースを見ながら、なかなか帰らないトトコに気がついた。ためしにそのままにしてみた。その時からトトコは我等の家族になった。

トトコは気持ちの良い店の壁を、ちょっと目を離したすきに気持ちよさそうにガリガリやっていた。「トトコ!!

その後トトコとのいたちごっこのガリガリが続いた。展示台をかねた桐の箪笥、床、柱。ぼくは根気強くそれらの躾けや、おしっこのしつけをした。

半野良のトトコにはしつけが、きつかったのか家出した。

「toto物語」

「トトコのその場跳び」というのがあって、部屋の中にいても何かに脅えて警戒しながら、そろりそろりと歩いてると何かのショックでびっくりしてその場で1メートル位飛び跳ねた。ぼく等はそれを見てびっくりしたりした。

それは展示会などで何日か家を空けたときにトトコが自由に出入りできるようにとトイレの下窓を開けておいた、どうやらそこから別の猫が入ってきて恐怖を経験したのがきっかけのようだった。

開けとくべきか閉めとくべきか話し合った結果、トトコのそんな様子に同情はしたが出かけるときは下窓は開けていった。トイレのしつけがまだ習得不完全な時の出来事だった。

「toto物語」

しばらくの間トトコは濡れ縁に出してある餌だけは食べにきているみたいだった。濡れ縁がコトと音がするとそれがわかる。

そしてある日の朝、カミサンが出勤するとき、店横路地の濡れ縁に積んである荷物のてっぺんに、古新聞紙袋の中から「三角の耳」だけがちらり見えた。「あら、そんなところにいたの。」

そんなこんなしているうちにトトコはまた一緒に暮らすようになった。徐々にトトコはしつけを守るようになっておしっこも定位置にするようになった。

今日は「猫の日」だって。

「toto物語」

練馬の店はぼくが仕事をしながら店番をし、カミサンはすぐ近所の仕事場に通ってた。

トトコはカミサンが出かけた後必ずぐずって啼いてた。まるで子供が寝る前のダダをこねるみたいに。かまってやらないとあきらめて寝てしまう。

なるべく運動をかねた遊び「紐追い」をさせ疲れさせてから寝かせた。

陶芸作家の大壷に裂き織の材料の玉が沢山入れてあった、それにカマスをかけてある上で、体を丸くしていつもよく寝てた。くぼみがちょうど良く体にフイットして気持ちよさそうだった。

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履歴っぽいけど。